引用聖句:ヨハネの福音書3章3節
コリント人への手紙第II、5:17
ローマ人への手紙15:1-3
この間私たちはテサロニケにいる人々の信仰について考えてまいりました。彼らはイエス様との出会いによって喜んで証しするようになりました。すなわちイエス様のみが価値あるお方である、比類なきお方であると言えるようになったのです。 イエス様の偉大さを知るようになったから、当然の結果として彼らは偶像を捨てて、生きるまことの神に返るようになっただけではなく、生きるまことの神に仕えるようになり、心から礼拝するようになったのです。 それから、彼らのひとつの大切な特徴とは、イエス様はまた来られます。備えあれば憂いなし。イエス様は今日来るかもしれない。そうすると、明日のこと、半年先のこと、別にどうでもいいのではないでしょうか。 早く成長したテサロニケにいる兄弟姉妹は本当にイエス様を知ることによって、すなわち新しく生まれ変わることによって、変えられるようになったのです。 当然そのとき、キリスト教という宗教は存在していなかったから良かったのです。 今朝ある姉妹は、ご主人に報告したらしい。「洗礼を受けたい。」彼は大いに怒って、「けしからん。もう離婚だ。」云々と。結局まともな男ではないでしょうか。 いや、変な宗教がいっぱいあるから、やっぱり奥さんがとんでもない団体にはいれば困るよ。ですから、まともな反応だと思います。ですからあなたの洗礼だってどうでもいいよ。 けれども多くの人々は結局、普通の人が考えているのはイエス・キリストのなさったことではない。あ、キリスト教か。困ります。結局宗教にはいることによって、キリスト教にはいることによって何にもなりません。騙されるのです。 けれども人間にとって大切なのは、今兄弟も読みましたように、大切なのは、新しく生まれ変わることです。 ヨハネの福音書3:3
ニコデモという聖書学者に向かってイエス様は、 ヨハネの福音書3:3
キリスト教徒の多くは洗礼を受ければ救われますと言います。悲劇的な考え方です。洗礼を受けることによって人間は救われませんと聖書は言っています。 新しく生まれ変わらなければ、結局ダメ。そして新しく生まれ変われれば、結局新たなるものが存在すると、読んでもらいました個所の中で書いています。 コリント人への手紙第II、5:17
その人は、ちょっと間違った表現です。聖書の一番下に書かれています。そこには新しい創造があると書いています。これは正しい訳なのです。 キリストのうちにあるなら、そこには新しい創造がある。この新しい創造とはもちろん、どうしようもない人間の中に住むようになるイエス様なのです。 コリント人への手紙第II、5:17
イエス様を信ずるといったい何が起こるのでしょうか。今読みました二つの個所こそがその答えです。 イエス様を信ずるようになった人は新しく生まれた人であり、また、新しく造られた者です。神のみことばである聖書ははっきりそう言っています。 新しく生まれ変わった人は、新しく造られた者は、新しいいのちを持っています。新しいいのちを持つことこそがもっとも大切なのではないでしょうか。 ある宗教にはいることによって救われないし、新しいいのちをも得られません。いうまでもなく、キリスト教という宗教にはいることによっても救われない。 イエス様を信ずるとは、生まれ変わった、本当に新しく造られた者となる。イエス様を自分の救い主として受け入れることによって、今までに主なる神に対して死んだ人は新しく造られた者となります。 イエス様を信ずることによって今まで主に対して死んでいた人は新しく造られた者となり、新しいいのち、すなわち永遠のいのちを自分のものとします。ヨハネは手紙の中で次のように完璧に書いたのです。 ヨハネの手紙第I、5:12
もちろん永遠のいのちです。 ヨハネの手紙第I、5:12
永遠のいのちを ヨハネの手紙第I、5:12
その人は死んでから永遠の滅びになる。 ヨハネの手紙第I、5:13
はっきり確信するためです。その確信の土台とはいうまでもなく、人間の考えていること、思っていること、感じていることではなく、書かれていることばです。 「どうして信じるのですか。わかったからですか。」、「いいえ、わかりません。」、「何か感じたのですか。」、「いえ、何も感じていない。」、「そうしたら、どうして信じるのですか。」、「聖書がそう言っているからです。」 信仰の唯一の土台はみことばだけでなければ非常に危ない。 イエス様を信ずるといったい何が起こるのでしょうか。イエス様を信じるようになった人は新しく生まれた人であり、また新しく造られた者です。この新しく生まれ変わった人は、この新しく造られた者は実に新しいいのちを持っています。 新しいいのちとはイエス様なのです。イエス様は、「わたしはいのちそのものです。」と言われました。 第二番目。イエス様を信じると父なる神、また御子なる主イエス様は自分にとって生き生きとした現実となります。もう離れられない。 ひとつの実例はパウロなのではないでしょうか。イエス様を信じる者の大迫害者であるパウロは、ダマスコへの道の途中で天からの声を聞いてびっくりしました。 「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」「あなたはどなたですか。」と尋ねますと、主の答えは、「わたしはイエスです。」パウロはこれだけ想像しなかったのです。 何?イエスはまだ生きているのか。十字架の上で死んでしまったのではないのか。 この十字架につけられたイエスに対する思い出を消すために、私はこのイエスを信じる者たちを迫害しているのではないでしょうか。主のひとことばによって彼は変えられました。 イエス様とは彼にとって生き生きとした現実となったのです。イエス様は高く引き上げられ、すべての名にまさる名を持つお方です。もし私たちはこの生き生きとした現実である主イエス様を経験すると救われます。 イエス様に話すこと、祈ることこそが大切です。正直に自分の問題について、自分の心からの願いについて話すと、主は間違いなく答えてくださる。 パウロが「あなたはどなたですか。」と聞くと、もちろんすぐ答えられたのです。「あなたが迫害しているイエスです。」 主は確かによみがえられ、昇天なさり、救うために生きておられる偉大なる救い主であることを経験する人とは、本当に幸せです。 イエス様を知る道はイエス様に来ることです。多くの人は、「何という馬鹿げたことでしょう。目に見えない者に話すことだって。」 けれどももし私たちは例えば、大変恐ろしい病気をもつようになるとします。「あの病院で本当にすばらしい医者がいる。一緒に行こう。」と勧められるけれど、「いや。嫌です。行きたくない。信じません。そういうことをできる医者はいない。」と言われれば、大した病気ではないのではないかという結論になるでしょう。 自分の病気の恐ろしさを意識している人は、間違いなく医者に言うでしょう。「私は紹介された者で、あなたは助けることができると聞いたから来ました。お願いします。この傷を診て、何とかして助けてください。」と言うに違いない。 罪人が自分の失敗だらけの罪にまみれた生活を思って、イエス様にこのように話すとイエス様は必ず答えます。「あなたの罪は赦された。」と言うに違いない。 イエス様のところに行くと、へりくだって近づくと、必ず経験します。すなわちイエス様は生きておられるお方であるということだけではなく、イエス様にとって不可能なことはない。罪を赦すお方であることを確信するようになります。 イエス様を信じるといったい何が起こるか。第三番目。イエス様を信じると、自分の生活は無意味ではない。 生まれながらの人は、どうして生きているのか。この生活の意味はいったい何なのでしょうかなどとは全然知らない。そして、永遠の現実に対する理解力を全然もっていません。 もしイエス様を信じない人に聖書の事実について話しても、何にもわかりません。そういう人々はとってもいい教育を受けて、そして信心深い人であるかもしれませんが、聖書の話だって彼にとって馬鹿げたことです。 数えられない多くの人々は、どうして生まれたのかわからず、何のために生きなくてはならないのか全くわからない。結局イエス様を知らないからです。 主の恵みによって生まれ変わった人々は、自発的な証しを持っています。イエス様から与えられた喜びと平安はそれほどすばらしいものであるから、ほかの人々もこの喜びにあずかることができるように祈るようになり、また証しするようになります。 ひとことばで言いますと、自分の生活は無意味ではない。 第四番目。新しく造られた人は、新しい関係、また新しい興味を持つようになります。 生まれながらの人は自分の関係と興味を持っていますから、イエス様を信じる人々をもちろん理解できないし、批判するでしょう。 彼らの行ないとあなたの行ないは確かに正反対です。そしてあなたは彼らの行くところへ行かないのですから、大きな誤解が生まれてきます。 彼らは、あなたは自分の自由をなくして、そして大いなる誤りにはいったと考えているのですけれど、あなたの考えはちょうど反対です。 あなたは彼らに同情します。もう一度パウロの生活を観察しますとわかります。彼は回心する前に、一生懸命働いて、また、勉強しました。 彼は自分で考え、自分で計画し、自分で色々なことを行ないました。朝から晩まで自分で決めたり、自分でやったり、このような生活をしました。彼は始めから終わりまで自分、自分、自分と考えた男でした。 けれどこのパウロが回心したとき、子どものように尋ねるようになりました。「主よ。今からどうしたらいいのですか。教えてくださらなければもうおしまいです。」 彼はイエス様の生き生きとした現実を見たとき、彼は自発的に、「主よ。導いてください。もう自信がまったくなりました。あなたが導いてくださらなければ、もうダメです。」すなわち、そのときからイエス様はパウロの絶対的な支配者となりました。 この、自分、自分、自分だけを考えていたパウロは、「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか。」と尋ねるようになったのです。これはもう奇蹟です。回心です。新しく生まれることそのものです。そして、新しく造られた者は、新しい関係、新しい興味をもつ者です。 イエス様を信じると何が起こるか。第五番目の答えは、新しい能力が自分のものになります。 今までに生きるまことの神に対して目くらであった、つんぼであった人は突然全部明らかになります。この新しく与えられた能力は考えられない奇蹟です。 大学の教授でさえ主なる神の国の者に対して何にもわからないけれど。けれど知識のない新しく生まれたばかりの人は大喜びで証しすることができます。 なぜならこのようなことは勉強によってではなく、生きるまことの主なる神との交わりによってだけ知ることができるからです。 主イエス様を信じ受け入れた人は御霊の宿になります。御霊の働きによって知ることができ、確信することができるのです。 けれども生まれながらの人にとってそれらは愚かなものにすぎません。イエス様を信じるようになることによって、まったく新しい能力を持つようになります。 ほかの人々に対するまったく不可能なことは、イエス様とつながっている人はできます。なぜなら内に住んでおられるお方は何でもできるお方であるからです。 イエス様とはわれわれの力の源そのものです。パウロは喜んで証ししました。私を強くしてくださる方によって何ごとでもすることができる。私を愛してくださる方によって私は圧倒的な勝利者ですと。 もうひとつ。イエス様を信じることによって何が与えられるのでしょうか。いうまでもなく、新しい希望です。前の失望と絶望はなくなります。 イエス様を信じる者は将来に想像することのできない、すばらしい栄光にあずかるようになると確信しています。 いうまでもなく、これは色々な教えの結果よりも、主イエスを信じ、イエス様につながっている者は、この事実を心の内に確信しています。 たくさんの混乱と苦しみが来ると多くの人々は失望してあきらめます。けれどイエス様に頼る者はこれは終わりではないという希望と確信を持っているから前向き生活をすることができます。 イエス様を信じる者は自然のもともといい能力を持っているのではなく、望みの神ご自身が彼らにすばらしい希望をお与えになったからです。 イエス様を信じるといったい何が起こるのでしょうか。今話したように、イエス様を信じる者は新しいいのち、すなわち永遠のいのちを持っている。またイエス様ご自身が自分にとって生き生きとした現実となる。 それから、そういう人々の生活とは、決して決して無意味ではない、はっきりとした使命を持っているのです。 それから、新しい関係、また、新しい興味を持つようになり、また新しい能力を自分のものにすることができるのであり、また、新しい希望を持つ者となります。イエス様を信じ、受け入れた人は経験したのです。すなわち、すべてが新しくされた。古いものは過ぎ去った。 イエス様に頼る者は新しい関係、新しい興味を持つ者です。 確かに、自分の弱さ、自分の無力さを感じながら私を強くしてくださるお方によって、私を愛してくださる主イエス様によって、何ごとでもすることができると経験するようになります。 主を信じる者の言い表わすことのできないすばらしい富とは、もちろん自分の内に住んでおられるイエス様です。 けれども救われたとしても、召されるまで、あるいは主の再臨までやっぱり戦いの連続なのではないでしょうか。 ですから私たちは毎日ひとつの別れ道に立たされるのではないでしょうか。何のために生きているのでしょうかと毎日問うべきです。 色々な可能性があります。ひとつの可能性は自分自身のために生きること。自分自身を喜ばせる生き方です。 多くの人々の特徴は自分だけのことを考えるということです。だから全部上手くいきません。結婚生活も家庭生活も社会生活も上手くいかなくなる。だからどこでも競争があり、ねたみがあり、憎しみもある。 前に読みました個所をもう一回読みましょう。ローマ人への手紙15章の1節からもう一回読みます。 ローマ人への手紙15:1-3
パウロだけではなくペテロも同じことについて次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、2:4-5
とあります。イエス様は自分自身を喜ばせようとはなさらなかった。自分自身を喜ばせるとは結局自己満足です。イエス様はそういう気持ちを知らなかったのです。 確かに人間はみな問題にはいりたくない。みんな楽な道を選ぶのではないでしょうか。 人間は自分の利益を追求する者です。イエス様は全く違うお方でした。ですから私は、いくら聖書を読んでも、考えてもイエス様のことをつかめない。わからない。マタイの福音書11章の中で、みなさんもご存知の個所なのですけれど28節から読みましょうか。 マタイの福音書11:28
キリスト教にはいれ、ではない。教会に行け、ではない。洗礼を受けるべきだ、ではない。わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 人間にとって必要なのはやっぱり真の平安ではないでしょうか。それからイエス様の驚くべき告白です。29節。わたしは心優しく、へりくだっている。イエス様にしか言えないことです。 マタイの福音書11:29
イエス様は、「わたしはへりくだっている。」と言えたのです。 ヨハネの福音書の中でイエス様は多くのことを正直に証ししてくださいました。例えば5章の30節を見ると、次のようにイエス様は言われたのです。 ちょっとだけ福音書を読むと、いやー、イエス様はすごいという印象を受けます。けれどもイエス様ご自身の証しを見ると、また驚きます。5章30節。 ヨハネの福音書5:30
もうアウトです。わたしはできません。 ヨハネの福音書5:30
イエス様の話されたことばとは、祈りを通して前から父から聞いたことばでした。何を話しましょうかとイエス様は一回も思ったことがない。 「お父さま。何を話したらいいのですか。お教えになってください。」、イエス様は絶えずこの態度を取りました。 私たちは主を信じながら自分を喜ばせ、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追求することはもちろん可能です。自分の最大の敵は自分だからです。自分の考えによって導かれる者は本当に気の毒です。 イエス様を喜ばせる者は私たちのうちに何一つありません。だからイエス様はただ単に私たちの債務を贖うために死んでくださっただけではない。私たちの古き人とともに死んでくださったと聖書は強調しています。 古き人、すなわち自分自身の自我はイエス様のためにまったく役に立ちません。それは死に価するものです。 もし私たちが自分自身の利益を考え、役割を演じたいと思うとき、もはやイエス様の喜びはわれわれの上にはなく、ただ悪魔だけがそのことを喜ぶのです。 パウロはローマの刑務所の中で次のように書いたのです。彼は重荷を感じて、聖霊に導かれて戦わなければならなかったのです。 ピリピ人への手紙2:3-5
なぜ実りが少ないのでしょうか。なぜ御霊はしばしば悲しまれるのでしょうか。なぜならば私たちは自分自身を喜ばせているからではないでしょうか。 キリストは自分自身を喜ばせなかったと書いてあります。すなわちイエス様は自分自身を忘れ、誤解されたり、そしられたりすることをよしとされました。 それだけではなくイエス様は、人間の罪に対する聖なる父なる神の怒りのさばきをご自身の上に引き受けることもよしとしてくださったのです。 イエス様はのけ者とされ、のろわれることをよしとされた。「わが神、わが神。どうしてあなたはわたしをお見捨てになったのですか。」とイエス様は叫ばれたのです。 またイエス様は次のように証ししました。 ヨハネの福音書8:50
自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、自分の利益を追求する者は本当に気の毒です。詩篇の作者であるダビデは、有名な詩篇の115篇の1節に心から言えたのです。 詩篇115:1
またパウロは次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙5:26
それから、 コリント人への手紙第I、10:33
とパウロは同労者たちといっしょに言えたのです。また、 ローマ人への手紙15:2
と書かれています。私たちが何のために生きたいと思うかについては、考えた第一の可能性は、自分自身を喜ばせることです。 第二の可能性は、ほかの人を喜ばせることです。人間を喜ばせる願いとは多くの人々の特徴ではないでしょうか。ちょっと危ない。 パウロは正直に告白したことがあります。ガラテヤ人への手紙1章の10節を見ると次のように書かれています。 ガラテヤ人への手紙1:10
また、テサロニケにいる兄弟姉妹に同じくパウロは書いたのです。 テサロニケ人への手紙第I、2:4
またエペソにいる人々にパウロは似ていることを書いたのです。 エペソ人への手紙6:6-7
また、コロサイ人への手紙3章22節にパウロは当時の奴隷たちに書いたのです。 コロサイ人への手紙3:22-23
人間を喜ばせようとする者は、知らないうちに縛られるようになります。すなわち、人間の奴隷となります。 その人は内面的に不自由になり、大変神経を使ったりします。必ず不幸で失望します。人間は失望しますが、イエス様は決して失望させません。 集会のある姉妹は都市の青年の犯罪について聞いた声について話してもらったことがあります。おそらくはまだイエス様を知らないと思われるその講師の方は、青少年犯罪のおもな原因が間違った教育であると言われたそうです。 子どもたちはただ人間に対してどのように行動すべきであるかを教育されますが、しかしそれは決して十分とは言えず、子どもたちは主なる神とどのような係わり合いを持つべきかを知らなければならないと言われたそうです。 イエス様を知らない人でさえこういう結論に至ったということは、まことに驚異です。驚きです。 主なる神を恐れることのない人は心の支えを持たず、自分のことばかり考え、そしてほかの人を顧みることをせず、どうしようもない、もはや抑えることのできない者となります。自分のことばかり考え、自分のために生きる者や自分を喜ばせる人は不幸です。 けれどただ人間だけを喜ばせようとする人もまた不幸です。なぜならそれはだれにも成功しないからであり、すべての人間を喜ばせることはまったく不可能なことだからです。 もうひとつの生き方があります。当然です。イエス様を喜ばせたい生き方です。すなわち自分自身を否定し、人間を喜ばせる生き方をしないで、ただイエス様おひとりだけを喜ばせる生き方をしたい人は必ず幸せです。 人間が私を非難、批判したり、ほめたり、大切にしたり、誤解してもかまわない。主よあなたに喜んでいただけることこそ私にとってすべてのすべてである。そういう心構えを持つことこそが大切なのではないでしょうか。 イエス様に喜ばれることを求める者は人間の判断から解放されます。 イエス様に喜ばれることを求める者は、隣人に対して取る行動も正しいものとなります。 イエス様に喜ばれることを求める者は、自分自身のために生きるのではなく、ほかの人のために生きたいと思うようになります。 創世記の中で、3章に書かれていることなのですけれど、アベルの兄、カインという男はひどいことを言ったのです。「私は、弟の番人でなければならないのか。」、この態度を私たちは今日も至るところで見いだすことができます。 私たちは、私たちの周りの多くのたましいのために責任を持っています。私たちはただ救われて聖められるためだけにこの地上にいるのではなく、主の器となるために用いられなければなりません。 私たちを通してイエス様はご自身を啓示なさりたいと思っておられます。私たちを通して主イエス様はご栄光を現わしたいと望んでおられます。 ただイエス様だけが栄光をお受けになってくださり、私たちの周囲の人々が救われるならば、私たち自身のことはどうなろうと構いませんという心構えを私たちが持っていれば本当に幸せだと思うのです。 もう一ヶ所読んで終わりましょうか。使徒の働きの20章の24節です。パウロの告白です。 使徒の働き20:24
パウロは本当にそう言えたから、彼は大いに最期まで祝福されたのです。 歴代誌第II、16:9
結局主はそういう心構えを持つ人々こそ要求されています。歴代誌第IIの16章の9節。 非常に大切なすばらしいことばは、結局主は、主を心から愛している人、心から主を待ち望んでいる人々を捜し求めておられるのです。自分自身を明らかにしようと望んでおられるからです。 |