引用聖句:ゼカリヤ書2章10節-11節
ハバクク書3:17-18
コリント人への手紙第II、6:10
今読んでもらいました個所の中で、 ゼカリヤ書2:10
これこそがクリスマスのメッセージそのものではないでしょうか。 三つのことを預言者は言ったのです。第一に、喜び歌え。楽しめ。意味は、どのような状況に置かれても、そう容易くすることはできないようなこと、すなわち、喜び歌え。楽しむということに対する命令がなされています。 単なる提案ではない。喜び歌え。楽しめ。 第二番目に、このみことばの中で上に述べた命令はどうすれば従順にしたがい得るかという秘訣ですか。奥義が明らかに示されています。すなわち、見よ。わたしは来る。わたしを見なさい。 旧約聖書の内容とは結局、あきらめる必要はない。救い主が来る。 それから第三に、主のみこころを知ることができます。すなわち、わたしはあなたのただ中に住みたい。 主は、喜び歌え。楽しめと命令しておられ、且つそのような勧めがなされているということは、だれでも理解することができるのではないでしょうか。 主の言われることは、もちろん主の思いであり、主が望んでおられることです。その意味で主と人間とは違う。 人間は色々なことを言います。本当はそう思っていない。偽善者そのものです。主は違う。結局この個所によると、落胆、悲しみ、敗北感は禁じられています。 主は人間が喜び歌うべきであるとはっきり言われました。このような主の命令に対して不従順な態度を取ることとは、どうでもいいことではない。罪です。 確かに多くの人々は思うでしょう。「ふん。そう言うことは簡単でしょう。」、けれど実際にその通り喜ぶことができない。無理だよ。 私たちは自分自身の状態や状況を見ると、本当に喜ぶことができないような場合が数多くあることを知っています。 パウロは主の恵みによって救われたあとで、また悩む者となった。「私は何というみじめな人間です。」と彼は告白したのです。 「私はみじめです。私の肉のうちに良いものは住んでいない。」とパウロは告白したのです。これは決して喜びの叫びではありません。 私たちが自分自身の内側を見ると、そこには喜ぶべき根拠が何一つ無いことを認めざるを得ません。 けれどその当時、主なる神はこのゼカリヤという預言者を通してイスラエルの民に、喜び歌え。楽しめと命令してくださったのですが、今日ももちろん主はひとりひとりに向かって全く同じような命令をなさいます。 現代人にとって、われわれにとって一番大切なのは何なのでしょうか。いうまでもなく静まることです。主の大いなる愛を見つめるため、主の愛を新しく体験するために静まることです。 私たちは色々なことについて考えたり、心配したりします。またどうしてもしなければならないことがあんまりにも多いので、どうしたらいいのかわからない。さっぱりわかりません。 けれど大切なのは静まることです。主によって愛されていると新たにつかむこと。新しく知ること。この愛を受けることこそが最も大切なのではないでしょうか。 主に愛されているとは一番信じにくいかもしれない。理性でもってつかめない事実ですけれども、最もすばらしい奇蹟です。 クリスマスのときよく読む個所は例えば次の個所でしょう。 イザヤ書9:6
またパウロはコリント人への手紙第IIの9章15節に、 コリント人への手紙第II、9:15
と言ったのです。礼拝のないクリスマスはあり得ない。 救い主は自分のために生まれたと考えると、どうしましょうかという気持ちになるのではないかと思います。ルカの福音書の2章9節からちょっと二、三節読みます。 ルカの福音書2:9-11
ここで複数形になっていますけれど、単数形で読んでもいいでしょう。あなたのために、 ルカの福音書2:11
期待された救いの神であるお方です。 ルカの福音書2:12
飼葉おけに寝ておられるみどりごとは、おそらくイエス様しかないのではないでしょうか。 パウロはテモテへの手紙第Iの中で、3章の16節、次のように書いたのです。 テモテへの手紙第I、3:16
パウロはこのすばらしい救い主とともに全てが与えられたと証ししたのです。自分で経験したからです。 ローマ人への手紙8:32
神は、そのひとり子であるイエス様を賜ったほどに、この世を、私を、あなたを愛してくださった。それは御子を信ずる者が、ひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためであると、ヨハネの福音書3章16節に書かれています。 イエス様ご自身が最もすばらしい贈り物であり、父なる神の愛の表われそのものです。この救いの神を経験した人々は、もう本当の意味で喜ぶようになったのです。 ダビデは、3,000年前でしょうか、言ったのです。 詩篇118:14
救いとはイエス様です。一時的な問題の解決ではない。イザヤも同じことを告白したのです。 イザヤ書12:2
ダビデもイザヤもクリスマスの本当の喜びを味わい知るようになったのです。イエス様を生んだマリヤは次のように歌いました、 ルカの福音書1:46-48
主イエスは生きておられる。私たちは、イエス様が来られたのは良かった。イエス様が代わりに死なれたのは良かったと言えるのではないでしょうか。 イエス様について多くのことが書かれていますけれども、ひとつの預言のことばとは、約束された救い主とは悲しみの人となる。確かにイエス様とは悲しみの人でした。 色々な絵描きさんがイエス様のことの絵を描いたのです。けれどどの絵を観ても笑っているイエス様の絵はないのです。考えられないからでしょう。 けれどもイエス様は必ず子どもと一緒に遊んでいたとき、大きな声で笑ったり、一緒に遊んだに違いない。けれど大人と一緒になったときは悲しくて悲しくてしょうがない。 もうみんな偽善者そのものです。わがままそのものです。正直ではないし、透き通っていないし。イエス様は悲しみのお方でした。けれども全部私たちのためです。コリント人への手紙第IIの8章9節を見ると次のように書かれています。 コリント人への手紙第II、8:9
イエス様は乞食の乞食だったと言ってもよいでしょう。自分の住まいを持っていませんでした。一部屋、三畳の部屋でさえも無かった。何にも無かった。イエス様は本当の意味で貧しくなられました。 それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。イエス様を通して富む者となった者は本当の意味で喜ぶことができます。 ですから主なる神は私たちがどうであるか。どのような状態であるかにはお構いなく、喜び歌え、楽しめと命令しておられ、要求していてくださるのです。 このことを示すみことばを二、三ヶ所見てみましょうか。前に読んでもらいましたハバクク書の3章をもう一回読みましょうか。不思議な告白です。喜びに満たされた男の証しです。 ハバクク書3:17-18
これが問題なのです。しかし、 ハバクク書3:18-19
たとえ私たちが何の実も見なくても、またそれが一見むなしいように思われるときでさえも、喜び歌え、楽しめと主は命令しておられます。 ハバクク書はこの態度を取ったでしょう。 ハバクク書3:18
ひとつの断固たる決断だったのです。もし彼が自分の気持ちに支配されたならば無理でした。もし彼が目に見える現実を大切にしたならば、もう悲しくて、悲しくてしょうがなかったに違いない。 イエス様はよく言われたことがあります。自分のいのちを失う必要性について。自分のたましいを失うことがどうしても必要であるとよく言われたのです。 もし、このハバククという預言者が自分の感情、自分の思い、自分の意思によって支配されていたならば、決して喜ばなかったのです。 状況は、ひとつの実を結ぶようにも思われず、人間的には全てがむなしかった。 使徒の働きの5章を見ると、このハバククのもっていた喜びを与えられた人たちについて書かれています。 使徒の働き5:41
悲しみながら、泣きながらではない。喜びながら。 イエス様に従う者は、それが犠牲を払わなければならないようなとき、使徒たちとおなじように、信仰のために甘んじて迫害を受けるということはそれほど簡単なことではありません。 それはただ目に見えるものから目を逸らし、ただイエス様を見上げることによってのみ可能です。同じく使徒の働きの16章はよく知られている、よく引用される個所です。 使徒の働き16:23-25
結局この二人の、主を大事にした男たちは無実の罪で不当に牢獄に入れられてしまったのです。そこで彼らはむちで打たれたり、棒で殴られたり、色々な拷問を受けました。それによって彼らは肉体的に大きな苦痛を受けなければならなかったのです。 それにも関わらず、真夜中ごろ、すなわち真っ暗で、逃れ道も無く、何の希望も無いように思われるとき二人は祈ったのです。 祈っただけではなくて、賛美の歌を歌った。気ちがいになったからではない。クリスマスの喜びをもっていたからです。 前に読んでもらいました、コリント人への手紙第IIの6章の10節でしたか。 コリント人への手紙第II、6:10
これこそが初代教会の兄弟姉妹の特徴だったのです。悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる。そういう人々がいると、やっぱり周りの人々も心を開くようになります。こういう喜びがほしいと必ず求めるようになります。 確かに私たちは色々な悲しみ、苦しみなどを経験します。けれど、それにも関わらずいつも喜ぶことができる。これこそが多くの苦しみを受けたパウロの証しでした。 ヘブル人への手紙の中でも同じことについて書き記されています。 ヘブル人への手紙10:34
私たちは色々な思い煩いや誤解、あるいは迫害を受けるとき、心から喜ぶことが簡単なことではない。それにも関わらず、これは主の命令です。 そしてまさにハバククや使徒たち、パウロ、あるいはシラスはその故にいつも喜ぶことができたのです。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。 どのような状況に置かれてもそう容易くすることはできようなこと、すなわち、喜び歌い、楽しむということに対する命令がなされています。 次に第二番目になりますけれども、このみことば、ゼカリヤ書の2章10節のみことばの中で、上に述べた命令は、どうすれば従順に従いうるかという奥義が明らかに示されています。 すなわち、「見よ。わたし、わたしは来る。」、主はなぜ私たちがいつも喜ぶことができるかの理由を説明しておられます。それは、「見よ。わたし、」ということです。 結局、わたしを見よ。すなわち、自分自身を見たり、他人を見たり、周囲の状況を見たりしないで、ただ主のみを見なさい。 2,000年前に来られた主のことについて考えなさい。また十字架の上で犠牲になられた主を見なさい。それからもうちょっとで迎えに来られる主について考えなさい。 主の命令は同時に、主がその力を授けてくださることです。主は決して不可能なことをお示しになりません。 「見よ。わたしは、」と言われるお方は万物をお造りになったお方であり、父なる神の本質の完全な現われであり、主なる神の右の座に座しておられ、全ての力を与えられた大能者であり、将来のさばきをもゆだねられているお方です。 目に見えるものから目を離し、ただイエス様だけを見上げることは、考えられないほど大切です。私たちの喜びの源は、ただただイエス様の中にのみあります。 本当の喜びの源は決して、理解、感情、愛する人、家族、預金、健康、成功などにあるのではない。 多くの人とは、これとこれとこれをもっていれば安心で幸せと考えてますけれど違う。まったく違う。 ルカの福音書2:10-11
すなわちベツレヘム ルカの福音書2:11
救い主があなたのために生まれ、あなたのために生きておられるということこそ、喜びの源です。 イエス様は天の栄光を捨て、人となられ、悪魔の奴隷と罪の中に沈んでしまった人々とともになられ、ご自分のいのちを捨てる備えをしてくださいました。 父なる神はイエス様を通してこの世に来られ、人々を顧み、救いの道を開いてくださいました。「終わった。」、「完了した。」とイエス様は叫ばれたのです。 最後に第三に、主のみむね、みこころを知ることは、わたしはあなたのただ中に住みたいということです。 昔から主なる神のご目的は人とともに住むことでした。エデンの園で主は人間とともに住んだのです。旧約聖書において、主なる神が民を顧みてくださった期間は、ある程度制限されていました。 主のご栄光が現われたところとしてまず第一に、いわゆる会見の幕屋でした。出エジプト記の40章を見ると次のように書かれています。 出エジプト記40:35
主が中心になると人間のためにいる余地がない。 そのあとでそのもの、宮の上にも同じような現象が起こったと聖書は言っています。 列王記第I、8:11
同じような体験をベツレヘムの羊飼いたちもしたのです。前に読みましたルカの福音書2章の9節。 ルカの福音書2:9
とあります。この野原の上では、主は限られた期間、イスラエルの民を顧みられたのではなく、人とともに住むために来られたのです。これこそが御使いのお告げでした。 弟子たちもこの栄光をともに体験することが許されたのです。ヨハネの福音書1章の14節に弟子たちは告白したのです。 ヨハネの福音書1:14
聖書の中で私たちは、わたしはただ中に住むとか、わたしは捨てないといったようなことばを非常に多く見いだすことができます。 わたしはあなたとともに、わたしはあなたの中に、ということこそ主の願いであり、みこころです。私たちが召し出されたのは、私たちが主の宮、主の住まいとなるためです。 主なる神の宮、主の住まいとしてのみ、私たちは本当の証し人、またしもべとなることができます。 「わたしは来る。そしてあなたとともに住むことを望む。」、このみことばは私たちひとりひとりに対して向けられていることばです。 私たちひとりひとりを通して大いなる奇蹟を現わさんと主は切に願っておられます。私たちひとりひとりを通して主はご自分のご栄光を現わしたいと望んでいます。 しかも遠い将来にではなく、まさに今日、この時にそれを成さんと主は願っておられます。わたしは来る。そしてあなたとともに住むことを望む、と。 お妃様が訪ねて来る場合には、目に見えるところだけ綺麗にしておけば、それで一度十分でしょう。 けれど住むようになれば、ちょっと・・・違うのではないでしょうか。大掃除をしなくてはいけないのはないでしょうか。 主はちょっとお客さまとして訪ねたいのではない。あなたとともに住みたい。主ご自身はわれわれのところにお住みになりたいと願っておられます。 多くの場合は、イエス様は単なるお客さまとして取り扱われているのではないでしょうか。けれどもイエス様はもちろん主として、支配するお方として住みたいと望んでいます。 そのために、もしかするとあらゆる罪を断ち切らなくてはならないのではないでしょうか。 結局罪が、あるいは自分が支配するか、イエス様が支配するかのどちらかです。 聖書の中で、主イエスは救い主であるともちろん何回も書かれています。数えてみると、26六回だけなのです。イエス様は救い主である。助け手であるお方は26回書かれています。 けれども主イエス様は、「主」と呼ばれているのは、670回です。ちょっと比べられない。結局救い主とは、主とならなければ、イエス様は私たちを用いられないことを意味しているのです。 私たちはただ単にイエス様がこの世において担ったことを振り返ることだけはなく、全てのことの支配者として、イエス様はまたおいでになるということ、すなわち、イエス様が近いうちに再びおいでになることを深く思わなければならない。 ドイツで有名な大学の教授だったのです。彼の親戚は総理大臣にもなりました。この教授はあるとき、学生たちに聞いたのです。「いったい確かなことは何か。」「何を思うか。」 学生たちは色々なことを言ったのですけれど、先生は「ダメ。」「これもダメ。」「ダメ。」、最後に、結局ひとりの学生は立って、教授に言いました。「先生はいったい何だと考えておられるのですか。」、教授は「イエス・キリストが来られる。ということです。」 イエス様はまた来る。近いうちに来るという確信を持つ人々だけがまことの喜びをもつことができるのではないでしょうか。 どうしてイエス様の再臨を待ち望む生活が大切なのでしょうか。三つのことが言えます。 第一番目。イエス様を待ち望む生涯は本当の意味をもっているから。それに対してイエス様を望むことのない生活には本当の意味がない。 なぜ私はあれやこれをしなければならないのでしょうか。全ては無駄なのではないかと、このような問いを抱いている人は世の中に大ぜいいます。もしも何かを待ち望む心が失われてしまったならば、人生は本当に退屈で、どうしようもないものになってしまいます。 この待ち望み、あるいは期待を失ってしまった場合には、無関心になって何もしないか、あるいは自殺をするかしか道は残されていないでしょう。けれど私たちはイエス様を待ち望んでいます。イエス様は必ずおいでになります。 第二番目。待ち望みの生活は目を覚ましている生活であるから大切です。 期待は目覚めさせます。とりわけ、永遠のいのちを提供されているということに目を開かなければなりません。 (テープ A面 → B面) ・・・者は聞くこともできません。 主イエス様を待ち望んでいる者は、自分自身の本当の状態に対して目くらではありません。イエス様を待ち望んでいる者は、イエス様を悲しませないようにと、絶えず心を遣っています。 けれどもイエス様を待ち望まない者は、目くらであり、イエス様の声に対して難聴のために、聞き取ることができない。 もう一つ。第三番目。待ち望みの生活は責任ある生活です。私たちひとりひとりはだれでも、ほかの人々に対して責任をもっています。 またイエス様を待ち望む生活は消極的ではなく、積極的、行動的です。イエス様を待ち望んでいる者は、機会を十分に生かして用いています。 また待ち望んでいる人々は、自分のことを忘れ、まず第一に主イエス様のことを考える人です。 またイエス様を待ち望んで責任ある生活を送っている兄弟姉妹は、絶えずイエス様の眼差しを意識している者です。 主を待ち望む者とは、やっぱり魅力的な人々です。思い煩いから、もう解放されています。心配する必要はないとわかっているからです。 もう一つしましょうか。第四番目。待ち望みの生活は、当然です。喜びの生活です。 本当にイエス様を待ち望んでいる兄弟姉妹のために、今日イエス様は来られるかもしれない。 このような生き生きとした待ち望みの信仰は、人間を全く変えてしまうのです。 今話したように、あらゆる思い煩いや苦しみ、悩みなど、イエス様の再臨を思うときに小さい者になります。 そして待ち望みと喜びの生活を送る源は、私たちが罪を赦されているという事実にほかならない。この確信を持っていない人でも持つことを真に望むならば得られます。 今日、確かにめちゃくちゃになった世界の中で、イエス様は来られるという真理こそが、私たちに本当の喜びと平安を与えてくれるのです。 |