喜びの土台


ベック兄

(深大寺家庭集会、2009/01/26)

引用聖句:詩篇34篇1節-10節
1私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
2私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
3私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
4私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
5彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
6この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。
7主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
8主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
9主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
10若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

詩篇34:15
15主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。

詩篇34:17
17彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。

詩篇34:21-22
21悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
22主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

いわゆる詩篇とは、祈りの本と言ってもいいでしょう。人間にとって最も大切なのは、言うまでもなく祈ることです。祈ることとは助けを求めることです。
どういう人々は、助けを求めるようになるかと言いますと、困った人々です。助けを求めなければ、悲劇的です。なぜならば、助け主を知る可能性は、ないからです。
だから、悩むこととは、本当に、必要です。

私は、最近入院された姉妹からE-mailをもらいましたけども、例えば、次のように書いたのです。「私の左目の視力が戻らず、足も萎えていますが、どんな所にいても、楽しく、喜べるようになりました。」
そういうふうに言える人々とは、ちょっと、確かに、変わった人々です。人間は、悩むか喜ぶかのどちらかです。両方は、普通ありえない。けども、本当の喜びとは、そういうものなんです。
何の問題もなければ、だれでも喜びますね。素晴らしい誕生日プレゼントもらいました、喜びますね。けども、全部うまくいかなくなると、「いやぁ、イヤだよ。なかなか喜べない。」、けど、聖書を通して提供されている喜びとは、やっぱり、変わらない喜びです。

そうすると、悩みながら喜ぶことができることこそが、最も大切なのではないでしょうか。それができない人は、決して幸せではない。
聖書は、本当に幸せであることが、あらゆる信ずる者のために主のご計画、また目標であるとはっきり言っています。
けど私たちは、しばしば不幸せではないでしょうか。イエス様との交わりは、しばしば我々の悩みや自己中心によって、濁ってしまいます。しばしば、私たちは喜ぶよりも、むしろ意気消沈してしまう者です。

さっきの詩篇34篇の著者はダビデです。二箇所、もう一回、読みます。8節と22節ですね。

詩篇34:8
8幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

主に身を避ける者は幸せ。それから22節、

詩篇34:22
22主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

とあります。聖書を知らない人々は、確かに罪という言葉を使わないでしょう。一般会話の中で出てこない言葉じゃないでしょうか。警察官は使いますね。裁判官も使います。そういう人だけ使うから、やっぱりちょっと問題なんです。
多くの人々は、罪とは悪い行いと考えています。けど聖書の言う罪とは全く違う。聖書に言われている罪とは、生けるまことの神から離れている状態なんです。
ある人は1キロ、主から離れているかもしれない。別の人は1ミリだけ離れているかもしれない。けど、離れていることとは問題なんです。

離れていることとは罪である。そしてここで、「主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」とあります。この二つの聖句の中で、二つの対立を見ますね。
8節の中では、「幸いなことよ。」という言葉が出てくるのに対して、22節では、「罪に定められない。」という言葉が表れています。
元々、罪に定められることとは、すべての不幸せの根本です。

けど、「主に身を避ける者は不幸せに留まる必要はない。」と、ダビデは証しています。このダビデの告白は、「主に身を避ける者は幸せであり、だれも不幸せになることはない。」、と言っています。
まことの幸せの土台は、一体何なのでしょうか。この詩篇の中で、いろいろなこと書かれていますけど、まず主に頼る者は幸せです。
この幸せの土台は、絶えずすべてを支配したもう主なる神の御手に守られていることです。1節ですね。

詩篇34:1
1私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

私たちは、こういうふうに言えるなのでしょうかね。「たまに」と言うかもしれない。けども、ダビデは「あらゆる」、そして「いつも」、という言葉を使っているんです。
結局彼は次のように言えたのです。「雨が降っても、太陽が出ても、私は苦しみをもっていても、またいなくても、また意気消沈していても、高められても、私はいつも主をほめたたえ、絶えず主への賛美がある。」、と言えたのです。
結局主は、私のことを知っておられ、背後にはっきりとした目的を持って導いていてくださる。良いことしか考えられないお方です。自分のために計画を持っておられます。道を平らにしてくださるのです。たとえ逃れ道のない状態に置かれたとても、私を愛してくださるお方の御手にいるということを、ダビデは知っていたのです。

「私たちはなぜ、いろいろなことで悩むなのでしょうか。いろいろな苦しみを経験しなければならないなのでしょうか。」と、多くの人々は考えます。
「どうして」「なぜ」と考えない方がよい、なぜならば、正しく知っている人はいないからです。けど私たちは、偶然はない、いわゆる運命も存在していません。
すべての背後に、支配者なる主は、導いてくださる。主は無駄なことは、何一つなさいません。間違った計算や無計画性は、主にとって存在しない。すなわち、主は自分の最善を考えておられます。

主は、決して変わることがありません。
私たちが感じようが、感じまいが、主が私たちのような者を、愛しておられることを考えると、確かに喜ぶことができます。
困難な道を理解することができなくても、いつか必ずわかる。主は決して捨てません。

イエス様を信ずる者は、喜ぶことができる。いったいどうしてなのでしょうか。
人間は、不幸だと言っても、聖書は違う言葉を使っているのです。不幸ではない、神の愛の表れである。確かに考えられないし、ピンときませんけど、間違いなくそうなんです。
多くの人々は、言い表すことのできないほど、困難と悩みを持っています。だいたいの人は、初めて集会に来ると、正直であれば、後で言います。ピンとこなかった。まったく分からない。

この間、ある集会がありました。ある男はみんなの前に正直に言ったんです。まったく、分からない。ピンとこない。僕、後で彼を非常に誉めたんです。「おめでとう。正直な男だ。あなたは、半分分かったと言えば、嘘つきだからです。
彼は、最後に祈るようになったんです。分かったかどうか関係ないよ。けど、彼は本物を得たい、そういう気持ちを持っていたからです。偽物はけっこうです。けど、私の心も空っぽで、人生はどういうものかまったく分からない。
結局、わかったから信じるという考え方は、確かに宗教的であるかもしれないけれど、間違っています。分かるもんじゃない。イエス様は、「もう少し勉強せよ。理解しないとダメ。」と言われたことがない。へりくだればOK。

初めて、多くの人々は集会に来ると、どう印象を受けるかと言いますと、「やぁ、この人たちはね、何の問題もない。すべてがうまくいっているらしい。あの人たちはね、自分の苦しみを、自分の悩みを持つようになれば、まったく違う。みんな問題を知らないから、だから、喜ぶことができる。無理もない。けど、私のもっている問題を経験すれば、いったいどうでしょう。」
私たちは、彼の考えが非常に短絡的なものであることを知っています。
イエス様のために生きたいと願う人は、誰でも例外なく苦しみと悩みを知っている。けど、それにもかかわらず、喜ぶことができるなのは、いったいどういうことなのでしょうか。

ダビデはやっぱり悩みました。苦しみました。彼は、主に頼る者は元気になる。前向きに生活することができるし、悩みながら喜ぶことができると、証しました。結局彼は、偶然は何一つないと思ったからです。
主ご自身が、すべての背後にはっきりとした目的を持って導いてくださいます。そしてイエス様は、自分の最善を考えておられる。人間的に見るならば、わたしたちはやっぱり、不幸せである根拠を充分に持っている。喜ぶ根拠は、そんなにないなのではないでしょうか。
と言うのは、人間はみんないろいろな問題や、未経験の状況に取り囲まれているからです。

今話したように、すべてがうまくいくと誰でもが喜びます。それは容易なことです。
けど、すべてがうまくいかなくなってしまいますと、まずくなってしまいますと、どうしてこんなこと経験しなくちゃならないの。どうしても説明がつかない時には、喜ぶということは、人間の能力を超えており、それは主の恵の表れなのではないでしょうか。
結局、「どうして」「なぜ」と言っても分からないけど、別に分からなくても必ず益になる。ダビデは、そういう確信を持っていました。

ローマ人への手紙8章の、皆さんよくご存知の箇所ですけども、ローマ人への手紙8章の28節を見ると、次のように書かれています。

ローマ人への手紙8:28
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて

大部分じゃない

ローマ人への手紙8:28
28すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

原語を見ると確信する。この確信があれば、やっぱり悩みながら喜ぶことができるのです。

悩む人々は、だいたい聖書のヨブ記を読むようになるんじゃないでしょうか。なぜならばあのヨブは、もう考えられないほど悩むようになった男だからです。けど彼は、悩みながら喜ぶことができました。
例えば試験的にね、今からね、一時間だけニュース見たい、テレビを見ながら、けども、今日は私は良いニュースを聞きたい。いくら見ても、聞こうと思っても、良いニュースはない。
もう大変。大変なことばっかりです。悪いニュースばっかり。世界中を見てもそうなんです。

ヨブはね、その時テレビはなかったけれど、ある日、おそらく何時間かの間に、悪いニュースばかり聞いたんです。彼は、当時の世界で一番神をおそれる男でした。一番まことの神を喜ばせようと願った男でした。
確かに当時の世界の一番の恵まれた、金銭的にも恵まれた男でした。財産家でした。
そしてある日、一人の召使が飛んできて、「ヨブ、ヨブ、聞いて、聞いて。この所のあなたの財産は、もう全部ダメになった。」、聖書はいつも同じ表現を使っているんです。

彼は話している間に、次の人が飛んで来た。彼は、まだ話している間に、また別の人が来た。「ヨブ、あれもダメになった。これもダメになった。」「ヨブ、あなたの十人の子供は、いっぺんに死んだ」云々と。
いやぁ、ちょっと想像できなかったし、人間的に考えれば彼はもしぺっちゃんこになったならば、当然だとみんな思うでしょう。
けども彼の態度は、やっぱり変わった態度でした。彼は、全部支配者なる主のせいです。「主は与え、主は取られた。」取られたのは、偶然ではない。主は許しちゃった。主のせい。主の御名をほめたたえます。結局、主から受け取ればできる。ヨブ記13章の15節見ると、彼は言っているんです。

ヨブ記13:15
15見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、

いやぁ、すごい態度。結局、私たちはヨブ記と言う本を持っているから、どうしてこういうふうになっちゃったのかわかる。ヨブは分からなかったんです。
けども、分かったことは充分でした。偶然はない。いわゆる、天罰も存在していない。愛されている証拠です。今、分からなくてもいいよ。彼は、もちろん病気も知らなかったらしい。けど重病人になったのです。
友だちはみんな彼を攻撃しました。こんなに不幸になるのは、やっぱり罪の結果である。天罰です。悔い改めないとけしからん、云々。

彼は、もう友だちもイヤになっちゃったんです。本当の友達だったら、やっぱり一緒に悩んでもらいたい。けど、そういうことがなかった。攻撃されるばかりだった。
一番彼にとっても悲しかったのは、彼の奥さんの態度です。奥さんは、本当は一緒に悩むべきだった。助けてもらうべきだった。
彼女は、「神をのろって死ね。もう自殺したほうがいい。」、もちろんまともな女性だったよ。現実だけを見ると、もうどうせ全部ダメだったよ。生きることだって意味のないことです。けども、何があってもヨブは、全部主のせいにしました。

ヨブはね、彼の反応は、もちろん当然です。彼の一番イヤななのは、自分の態度を攻撃した友だちでした。そして彼は、彼らのために祈ることやめたんです。もう充分です、あの連中たち。
そして主は、「ヨブ、これは罪なんです。今からまた、このおかしい友達のために祈りなさいよ。」
「ああ、そう、悪かったの。」、それで彼は必死になって友達のために祈った時から、全部変わった。財産は前よりも倍になった。また、十人の子供生まれた。もう幸せそのものでした。

彼は不幸になる前に、もちろん主を信じましたし、けども、主についてのうわさを聞いただけだよ。
今度は違う意味で、主を知るようになった。そして主の導きの目的とは、結局主を知ることなのではないでしょうか。
主を知るようになれば、悩みながら喜ぶことができ、不安、心配から必ず解放されます。そして、生きる希望を持って前向き生活することができるんです。彼は主を知るようになっただけじゃなくて、自分のことも知るようになった。私はダメ。

ある日、悩んでいる人がうちまで来ました。初めての文章は、「私は、ゴミです。」、言わなかったけど思ったのは、「おめでとう。」
「私はダメです。役に立たないものです。捨てられてもいい者です。主よ、哀れんでください。」、そういう態度があれば、大いに祝福されます。
自分で頑張れば何とかできると思う人は、主の素晴らしさを知ることができません。

使徒の働きの中で、やっぱり同じように悩む人々について多く書いてあります。
パウロと言う男は、シラスと一緒に伝道旅行に出かけて、あちこちイエス様を紹介しました。彼らはもちろん、自分のこと考えないで、やっぱり主のご栄光だけを思ったのです。
希望を失った人々、まことの喜びを知らない人々に、彼らは命がけでイエス様のことを紹介しました。けど、訴えられ、刑務所に入れられるようになりました。

パウロは、本当は自分自身を守ろうと思ったならできたんです。なぜならば、彼は恵まれた男でした。ローマの市民権を持っていました。ローマの市民権を持っていた人々は、絶対に裁判なし、刑務所に入ることはありえないことでした。
ですからパウロは、「皆さん、私は、ローマの市民権を持っている」と言ったならば、みんなもう恐れるようになっちゃった。「ごめんなさい、ごめんなさい。」と言ったしかない。
けど、彼は黙ったんです。言わない。どうして黙ったかと言いますと、一緒にいたシラスは、ローマの市民権を持っていなかったんです。ですから、シラスだけ刑務所に入れられるのは良くない。やっぱり、一緒に悩みたいと思ったのです。

罪のないのに刑務所につながれました。背中から血が流れ、足を足枷につながれたにもかかわらず、彼らは賛美した。主をほめたたえた。刑務所の中で。
真夜中ごろ、一番暗い時、何一つ希望の光が見えず、まったく逃れ道のない状態の中で、彼らは、感謝した。
頭がおかしくなったのか、主から受け取ったかのどちらかです。どうして、そんなことができたかと言いますと、彼らは、主がなさり、よく知っておられることを必ず主がご存知である。

主は、私たちが何もわからなくても、けども主ははっきりとした目標を追及しておられる。いつか必ずわかるようになる、と二人は、はっきりと確信したのであります。
主に頼る者の幸せの根拠なるものは、結局何でも主のせいにすることです。主は、目的を持って背後に導いてくださる。
第二番目の根拠なるものは、あらゆる不安が取り除かれるからです。詩篇の34篇に戻りまして、詩篇34篇の4節ですね。

詩篇34:4
4私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。

この節における最も大切なことは、これはもちろん、「すべて」という言葉です。主は、「すべての恐怖から救い出してくださった。」
これは聖書の教えよりも、ダビデの経験でした。私たちの誰でもが経験することができ、また経験すべき事実です。あらゆる種類の不安と恐怖が、この中に入っています。
誰かある人は、次のように言いました。「私は、あらゆる不安を取り除かれたなら、世界中で一番幸せな人間である。」と。

次のことを覚えましょう。あらゆる不安を取り除いていただけるのです。イエス様は、あらゆる恐怖から私たちを解放したいと思っておられ、そのことをすることがおできになるということです。
お医者さんたちはよく言います。「この世界で最も広がっているのは、恐怖症である。」、多くの人は、まさに生きることに対して不安を持っています。結果として、多くの人はノイローゼになってしまいます。
ほかの人は、薬やアルコールでもって何とかしようと努力します。ほかの人は、何の逃れ道を見ることができなくて、自殺してしまいます。

多くの人は、将来に対し不安を持ち、失敗に対する不安、年を取る不安、病気に対する不安、困難な試練や誘惑に対する不安、家族や知り合いのための不安もあります。
不安は本当にひどいものです。萎えさせたり、完全に麻痺させたりする者であるからです。イエス様は、あらゆる不安を取り除くことができるお方です。
ダビデは、彼が不安を持ったり恐れを持ったりした時、どうしたでしょうかねえ。大臣たち、友だちを呼んで、相談したなのでしょうか。違う。近道は祈ることです。助けを求めることです。

「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」
ダビデは、主を求めたので、祈りが聞き届けられ、あらゆる不安、あらゆる恐怖から救い出していただいたのです。
確かに、ある人は言うかもしれない。「あぁ私も、あらゆる恐怖から解放されたい。」、そのようになることができます。イエス様はそれをしたいと願っておられるからです。

あらゆる恐怖は取り除かれ、あらゆる不安から解放されているならば、想像することのできないような喜びが支配するようになります。
イエス様は、この全き大いなる喜びを与えようと望んでおられます。
この喜びはまた、イエス様から遠く離れている人を惹きつける力です。この喜びを持つ人間は、イエス様に対する飢え渇きを起こします。
なぜなら、あらゆる人は、イエス様を知ることによって、あらゆる恐怖から解放されたいと思うに相違ないからです。

イエス様に頼る者は幸せです。この幸せの土台は、あらゆる不安が取り除かれ手いることです。
イエス様は、あらゆる悩みを承知でおられるからです。
このように言われました。マタイの福音書の14章の27節ですね。

マタイの福音書14:27
27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」

ペテロはその時叫んだのです。「主よ。助けてください。」、そしてイエス様は、ただちに救いの御手を差し伸べたのです。
この悩みを赦したのはわたしです。あなたの上にこの暗闇を起こさせたのもわたしです。けど、また光を与え、あふれるばかりの祝福を与えるのもわたしだ。
「わたしだ。恐れることはない。わたしを見上げなさい。そうすれば、あらゆる恐怖は消え去ります。わたしは全能者です。わたしはあなたのために生きている。あなたのために存在して、配慮している。」

イエス様に頼る者は、幸せです。どうして?
幸せの土台なるものとは、もう一つ、ちょっとふれたいと思います。
幸せの土台は、罪がおおわれていることです。詩篇の34篇5節に戻りまして、

詩篇34:5
5彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

とあります。聖書全体を見るとはっきり分かります。すなわち、罪がおおわれていなければ、聖なる神の顔を仰ぎ見ることはあり得ない。不可能です。
イザヤという預言者は、主を見たらしい。
けど、ちょっとおもしろくない経験でした。

イザヤ書6:5
5「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

けど、詩篇の中で、私たちは主のみ顔を仰ぎ見ることができた人を見ますね。今、読みました34篇の5節です。

詩篇34:5
5「彼らの顔をはずかしめないでください。」

とあります。滅びないで、しかも罪に定められないで主のみ顔を誰が仰ぎ見ることができるなのでしょうか。罪がおおわれている者だけです。
そしてこのことは、あらゆる罪をイエス様の流された血によってのみ可能です。
すべての罪は、明るみに出され、知られるようになるだからです。

その前の前の詩篇の32篇を見ると、同じくダビデはこの事実について語ったんです。確かにこのダビデと言う男は、ひどい罪を犯しました。とんでもない犯罪を犯してしまいました。けど、彼は罪を隠さずに告白した後で、また喜ぶようになりました。
イエス様の流された血こそが、すごい力を持っています。
詩篇の32章1節ですね。2節。

詩篇32:1-2
1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
2幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

私たちは皆、自分のわがまま、あやまちが赦されているという喜びを個人的に知っているなのでしょうか。
自由に、主のいらっしゃる所へ近づく幸せを知っているなのでしょうか。
それは恵を受け、罪が赦され、受け入れられているということを知っているときに可能となります。

この喜びとこの幸せの土台は、イエス様、ご自身が流された血の代価によって、我々のために贖いの代価を支払ってくださったという事実です。
罪はおおわれれ、おおい隠され、決して再び現れることはない。イエス様に頼る者は、自分の罪がおおわれているゆえに、喜ぶことができるのです。
ですからパウロは、ローマ人への手紙の中で8章1節なんですけど、書いたんです。

ローマ人への手紙8:1
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

安心して将来に向かうことができる。希望を持って死ぬことができるのです。自分のあやまち、わがまま、罪を意識して、イエス様の御許に来て恵を願い求める者は、受け入れられます。
その罪はおおわれ、イエス様の義の上着で覆われます。
これこそ、主に頼る者の喜びの土台です。

イエス様に頼る者は、言い表すことのできない輝かしい喜びを持って喜びます。というのは、イエス様はすべての罪を常に、とこしえに、おおってくださったからです。
罪がおおわれているゆえに、イエス様に頼る者は、誰でも、大胆に祈ることができ、主に近づくことができます。
そして、大いに祝福されるのです。




戻る