引用聖句:詩篇119篇161節-168節
今日もまた葬儀があります。葬儀はいっつも楽しい集いなのではないでしょうか。戦いが終わりましたから。 人間はみんな結局、悩む者です。例えば人間は色々な問題について考えると、ひとうひとつみんな意見が違うでしょう。 けども天国で主なる神に奉仕する天使たちにきっと、「どうですか。あなたたちは人間についてどう思いますか?」と尋ねると、天使たちの答えはきっとみんな同じです。「人間は、みーんな悩む者です。」と言うに違いない。 本当にそうに違いないです。人間はみんな悩む者です。けどもふた種類の人間があります。 ある人々は、悩んで、がっかりして、諦めて、落ち込む。もうひと種類は、悩みながら大いに喜ぶことなんです。 今の読みましたダビデの告白を見るとわかります。彼は確かに色々なことで悩みましたし、苦しみました。けど、悩みながら、苦しみながら、大いに喜ぶことができたのです。今朝の題名は、「喜びの源」としたいと思います。 ある方々が初めて集会に来て、兄弟姉妹が非常に精通している様子、みことばによって生かされ、みことばから力をいただいている様子を見られてショックを受けました。 なぜなら、それまでみことばなしでもやって来たし、またやって来られると思っていたそのみことばこそが、兄弟姉妹の光り輝く顔の秘訣であることを知るからです。 詩篇の作者であるダビデは、主のみことばを自分自身に語らせました。そして主のみことばに全き支配されて、次のように書き出され得なかったのです。 詩篇119:162
また、エレミヤという預言者も同じ経験をしたのです。よく知られてる個所です。 エレミヤ書15:16
わかったのではないし、理解したのでもない。暗記したのでもない。食べた。自分のものにした。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。 まさにこのことは、いずれにしても私たち自身の経験でもなければなりません。 実際、父なる神がご自身の永遠の愛のうちに、私たちに対して新たに肉の形を取ったみことば、すなわち主イエス様をお与えになっただけではなく、書かれたみことばである聖書をもお与えになってくださったとは何という恵みでありましょうか。 この書かれたみことばにおいて、計り知れないほどの罪が明らかにされています。 パウロは愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。テモテへの手紙第IIの3章15節からちょっと見てみます。パウロの殉教の死を遂げる最期の手紙の中のことばです。 テモテへの手紙第II、3:15-17
この個所を見るとはっきり約束されています。すなわち聖書はあなたに知恵を与えてイエス様に対する信仰による救いを受けさせることができる。 またみことばは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。 ご存知のこの119篇は詩篇の中で一番長いところです。 ときどき人は何を祈ったらいいかわからないから、聖書は聖霊の宮だから祈りのことばですから、詩篇のみことばを読んでから祈ったらいいね。 だけど、119篇読んでから祈ったらって言えない。ちょっと長すぎ...。五節ずつくらいで十分なのではないでしょうか。 内容的には本当にすごい。167節。そして、やっぱり主のみことばの大切さについてダビデは告白しています。 ダビデは神の道について、これは主の律法、証し、命令、戒め、さばき、神の義、または神の真理について、この詩篇の中で語ってます。 このことから見ましても、この詩篇の119篇は比類なき作品です。主なる神の知恵の作品そのものなのではないでしょうか。 ダビデ王が主の前で、あるいは主のことばの前で静まったとき、そしてみことばに語らせたとき、次のように喜んで叫ばざるを得なかったのです。 彼は、大きな獲物を見つけた者のように、「あなたのみことばを喜びます。」、結局ダビデにとってみことばとは本当に救いでした。 ある人は、「イエス様。愛している。」と言います。その証拠なるものは何でしょうかね。 みことばを愛さなければ違う。主イエス様を愛してることと、みことばを愛してることとが一つにならなきゃいけないなのではないでしょうか。 主なる神のみことばは計り知れない宝庫、すなわち宝の蔵のようなものです。 ダビデはその宝の蔵の中を探し、掘り出しました。そして宝を見つけるとさらにまた掘る気持ちを生き生きとさせました。ダビデは決して失望させられなかったのです。 彼の飢え渇きは満たされました。ダビデのあふれるばかりの喜びは私たちにも伝わってくるはずです。私たちは心から主を愛してるのでしょうか。 イエス様をさらに一層よりよく知りたいという願いは、われわれの切なる願いなのでしょうか。 イエス様に対するわれわれの献身は本物であるかどうかということは、主のみことばに対するわれわれの切なる求めによってわかります。 それでは次の4つの点についてちょっとだけいっしょに考えてみたいと思います。 第一番目、計り知れない宝庫と主の神のみことば。 第二番目、大いなる提供としての神のみことば。 第三番目、挑戦と養成としての神のみことば。そして、 第四番目、大いなる喜びの源としての神のみことばです。 まず第一に、計り知れない方向としての神のみことばについてちょっとだけいっしょに考えたいと思います。 ダビデはこの詩篇の119篇の中で、何度も繰り返して、「聖書は神のことばです。」と言ってます。 それから、「私はあなたのみことばを喜びます。」と告白しています。 本当に161節から168節を見ると、主のみことばの大切さ、尊さを知ることができるのではないでしょうか。 この161節から168節の間だけでも、ダビデは8回も神の律法、神の証し、神の戒め、神のみことばが大切であると言ってます。 もちろんダビデは3,600年前に聖書のほんの一部分だけしか載っていなかったんです。けど私たちは神のみことばを完全な形で、今日聖書の66巻が神のみことばとして私たちに与えられています。 この66巻は40人の男の人々によって書かれました。この人たちの背景は色々と違っていました。それはちょうどその人たちの経験や能力が違うように違ってました。そしてまた彼らは同じ時代に生きていたわけではありませんでした。 したがって、彼らは何が書かれるべきであるかを相談するために一緒に集まることができなかったのです。彼らはだいたい1,600百年という期間の中でいたのです。 けども私たちはそれぞれの書かれたものの中に完全な一致を見いだします。だれでもが認めなければならないことは、これは40人の男の人たちが、文字通り神の御手のうちにある器だったということであり、本当の作者は生けるまことの神ご自身であるということです。 テモテへの手紙第II、3:16
前に読みました個所です。もちろんパウロだけではなく、例えばペテロもまったく同じことを書いたのです。 ペテロの手紙第II、1:21
彼らは、いわゆる預言者たちは神のみことばを聞いたから、このみことばを宣べ伝えたし、あるいは書いたのであります。ですから聖書はまさしく神のみことばと呼ばれるのです。 主なる神がわれわれに与えてくださった神のみことばは、たったひとつの過ちもありません。主なる神のみことばは完全に信頼できるものです。 私たちはこのみことばに完全に拠り頼むことができます。 神のみことばに疑問をもつ人もいます。その人たちは羊飼いのない羊のように、彷徨い、自分勝手にやってます。そしてもっとも恐ろしいことは、羊飼いをもたないことです。 神のみことばを正しく認めている人は、ただ単に明確な基準をもってるだけでなく、良い羊飼いをもっています。 第二番目。大いなる栄光としての神のみことばについてちょっと考えたいと思います。 ここでもう一度申し上げたいことがあります。それは聖書の中に私たちが救われるため、聖められるため、従うため、奉仕するために必要なすべてのものが私たちに提供されているということです。前に読みました個所とはそれをはっきり言ってるのです。 テモテとはおそらく青年として、また子どもとしてみことばを聞いたし、彼の母親だけではなく彼のおばあちゃんも主を信じて、聖書を喜びとしたのです。 孫であるテモテもあとでパウロによってはっきりとした確信をもつようになっただけではなく、パウロの同労者になりました。 幼い頃から聖書に親しんで来たことを私は知ってる。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができると聖書は言ってる。救いの確信を与えることができる。 聖書はすべて例外なく、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益である。 神のみことばは死を与え、救いを受けさせる力であること。神のみことばは、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益であるということが私たちに語られています。 ダビデはこのことを体験しました。それですから彼は大いなる獲物として主のみことばについて語ってます。主のみことばはダビデにとってあらゆる富以上のものでした。 このことでの関係でちょっと5つの真理をいっしょに考えたいと思います。5つの真理とはまず、 一番目、謙遜をもたらす神のことば。 二番目、誠実さをもたらす神のことば。 三番目。礼拝をもたらす神のことば。 四番目。平和をもたらす神のことば。 五番目。信頼をもたらす神のことばです。 第一の真理は神のみことばが謙遜をもたらすということです。 詩篇119:161
「私はあなたのことばを恐れている。」とダビデは告白したのです。 もちろんダビデだけではなく、モーセもまた主のみことばを体験し、その力について次のように証ししたのです。 出エジプト記の3章。モーセの忘れられない経験についてなんです。 出エジプト記3:2-6
モーセは主を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。預言者イザヤも、また主のみことばを体験し、次のように告白したのです。よく引用される個所なんですけども、 イザヤ書66:2
主はどういう人々を捜し求めているかと言いますと、もう一回読みます。 イザヤ書66:2
主のみことばは、砕かれた霊とまことの謙遜を与えることができる。それですから私たちは主のみことばをどれほど必要としていることでしょうか。 第二の真理は、神のみことばが誠実さをもたらすということです。 詩篇119:163
これはダビデの心からの告白でした。100%信じてて、正直で、透き通った性質をもちたいという切なる願いがあるときには、それは何と大いなることでしょうか。 ダビデは詩篇の中で証ししております。 詩篇34:13-14
同じくダビデは101篇の3節から次のように証ししたのです。 詩篇101:3-5、7
聖書は私たちに真実であることの必要性を示してます。そして主のみことばの中には、主が光の中にいらっしゃると同じように、光の内を歩む力が私たちに提供されています。 第三の真理は、主のみことばが礼拝をもたらすということです。 詩篇119:164
心から感謝します。崇拝せざるを得ない。ダビデは自分自身を大切にしないで、主だけを大切にしたのです。ですから彼は感謝でいっぱいになったのです。 主が内住してくださる人たちは3,000年前、ダビデより少ない感謝をもつ人々でした。 もし私たちが主のことを深く考えるならば、私たちは詩篇の作者とともに言うに違いない。 詩篇92:2-6
主なる神のみことばを愛し、主に対する愛の証明として主のみことばを自分の内に受け入れる人の生涯は変えられます。すなわち嬉しい告白ができます。 主の恵みは喜んで賛美と感謝を授けてくれます。その時、人は主の礼拝をせざるを得ない。 第四の真理は、神のことばが平和をもたらします。 詩篇119:165
私たちにはみなつまずいたり、平安がなくなったりする十分な理由をもっています。主のみことばによって立てられ、勇気づけられない人はそのためにさばかれています。 けど、主のみことばに拠り頼む者は大いなる平安で満たされます。 私たちは主のみことばの権威のもとに身をかがめ、すなわち謙遜にさせられ、主のくびきを自ら担い、主から学ぶことによってたましいの安らぎを見いだします。よく知られているマタイの福音書の11章の28節ですが。 マタイの福音書11:28-30
イザヤの体験は、また日々われわれの体験でもあるべきなのではないでしょうか。 イザヤ書の30章の15節です。よく引用される個所です。 イザヤ書30:15
第五の真理は、神のみことばが信頼をもたらすということです。 詩篇119:168
詩篇の作者であるダビデはこのことをまた別のことばで言い表わしています。「私の全生涯はあなたの御前に広げられています。私の時は、御手の中にある。」と、先ほどの詩篇の31編の15節にも書かれています。 主なる神のみことばに基づいて信頼できる人、そして不安と心配も持たない人は幸いなのではないでしょうか。 私たちは手短に、今5つの事実を述べて来ました。すなわち神のみことばは、謙遜、誠実、礼拝、平和、信頼をもたらすということです。 すなわち計り知れない、言い表わせない富がわれわれに提供されています。 すなわち心から誇り高ぶるわれわれに、主の謙遜が提供され、徹頭徹尾不真実な私たちにまことの主イエス様の真実が約束され、非常にしばしば十分、自分本位の人間である私たちに主ご自身を礼拝する可能性が与えられ、非常に忙しすぎて平安のない私たちに主ご自身の平和が与えられ、ちょっとしたことでもすぐに諦めてしまう私たちに、幼子のように主だけを信頼し、すべてを主にゆだねる勇気が与えられます。 今までいっしょに考えたのは、第一番目、計り知れない宝庫としての、神のみことば。第二番目、すなわち、大いなる提供、そして神のみことばについてでした。第三番目、挑戦と養成としてのみことばを見てみたいと思います。 私たちは主なる神のみことばによって、私たちに計り知れない宝庫が開かれており、言い表わすことができないほどの富が提供されているということを見て来ましたけど、私たちにとって大切なことは、私たちがこの宝を取り出し、この富にあずかるようになることです。 ダビデは主のみことばによって絶えず新たな発見をし、それによって豊かに恵まれましたから、大いに喜ぶことができたのです。大いなる獲物はダビデに与えられたのです。 なぜならば彼は主のみことばが約束を必ず守ってくださり、主に信頼できるということを経験したからです。ダビデは一度も失望させられなかったのです。 私たちも、また聖書の中を探し求めるのでしょうか。イエス様をよりよく知ることはわれわれの切なる願いなのでしょうか。 「われわれにとって大切なことは、全世界を獲得することではなく、主のみことばに拠り頼むことです。」という告白を私たちは本当に理解するのでしょうか。 使徒の働きの17章の11節を見ると、パウロのほめた人々について書き記されています。パウロは人々をあんまりほめようとしなかったんです。でもここで彼はほめたんです。 使徒の働きの17章の11節です。ベレヤという町の人たちは非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。結局彼らは「パウロ先生。教えてください。」そういう気持ち、あまりなかったようです。 「パウロの喋っていることは、良さそうだけど、本当かなぁ。」、騙されないように、彼らは自分で聖書を開い読んだんです。 パウロはそれを見たとき、うれしくなっちゃったあ。「彼らはすごい。」、ほめたんです。 ですから敵が何と言ってるか関係ないよ。自分で聖書調べて確かめてください。騙されないように。結局、聖書は何と言ってるか。それだけなんです。 ベレヤにいる人々とはやっぱり、彼らは自分で、たまにじゃなくて、毎日、聖書調べてるからです。 毎日の主のみことばの中を探り求め、まだ取り出されていない宝を日々取り出すことは、われわれの特徴となるべきなのではないでしょうか。 詩篇104:34
とあります。これもダビデの祈り、心の表われそのものでした。 主に語っていただきたいと思う主のみことばについて深く考えることは非常に大切です。隠されたところは私たちによって見いだされるべきです。 ダビデは大喜びで証ししたのです。前に読んだ個所です。 詩篇119:162
見いだした人はその前に探しました。努力なしに、自己否定なしに、そして犠牲なしに私たちはわれわれに与えられるために用意された富を自分のものとすることができないからです。 しかし、報われます。骨惜しみしないように探す者は必ず見いだします。 主なる神は私たちに与えたくてしょうがないというお気持ちで待っておられます。 数年前に、私はあるとき「キリストの富。あなたはなぜ乏しいの?」というパンフレットを読みました。その中に何が書かれていたか、もう詳しく覚えていないんです。 けどもこの題が今もなお私の頭に焼き付いているのです。「キリストの富。あなたはどうして乏しいの?」 神のみことばである聖書の中には隠された富があります。それらの富は私たちのだれにでもまったく個人的に提供されています。 けど私たちは豊かな富を与えられた者として、われわれの周囲の人に同じ気持ちを、飢え渇きとして起こさせる者であるのか、あるいは、片隅に追いやられ、主に擦り寄って用いられるように、乏しい者としてとどまるかのどちらかです。 けど自分自身が乏しい者であることに対して目くらで、自分は富んでる、豊かであると思い込んで、生活するのはそれは何という悲劇でしょうか。 よく知られてるヨハネの黙示録の3章の17節を見ると、当時のラオデキヤの兄弟姉妹はそういう状況に置かれていました。 ヨハネの黙示録3:17
恵みを与えられない人は自分の責任でそうなったことを知るべきです。なぜなら主イエス様はそのことを恵もうとして言っておられるからです。 詩篇81:10
あふれるばかりの祝福はだれに対しても用意されています。 私達はどうして乏しいのでしょうか?ひとつのことだけは確かなのではないかと思います。すなわちその責任はイエス様にあるのではない。われわれにあるということです。 色々なことが考えられることでしょう。私たちはみことばや祈りを疎かにしたのかもしれない。私たちは仕事の忙しさのあまり、主のみこころを尋ね求めなかったのかもしれない。和解の気持ちや、許したいと思う気持ちがなかったのかもしれない。 あるいはまた私たちは自分のことだけを考えて、楽な道を行ってしまったのかもしれない。 今まで次の3つの点について考えてまいりました。 第一番目、計り知れない宝庫としての神のみことば。第二番目、大いなる提供としての神のみことば。第三番目、挑戦と養成としての神のみことばです。 最後に大いなる喜びの源として神のみことばについて、ちょっと最後に考えて終わりたいと思います。 主なる神のみことばに浸染する者は大いなる喜びを経験します。ダビデは本当に喜んでいたのです。私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。 初代教会の人々も結局同じことを経験しました。彼らは確かに当時の社会の中でのけ者にされ、異分子のような者でした。けど彼らは喜んだのです。ペテロの手紙第Iの1章の8節を見るとわかります。 ペテロの手紙第I、1:8
あなたがたはことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びを得ようと思う者は、主の御声に耳を傾けなければならない。 「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」という態度はわれわれの心からの態度になっているのでしょうか。主は喜びに満ちた人々を得たいと願っておられます。ダビデが経験した喜びは3種類の性質を持っています。 第一番目、発見の喜び。 第二番目、交わりの喜び。そして 第三番目、証しの喜びの三種類です。 まず発見の喜び。私たちはみことばである聖書の中に何度も何度も新しい発見をして、隠された宝を見いだすことはどうしても必要です。 私たちがみことばを読んで、突然このみことばを通して主が今私に語っておられるということを知るとき、大いなる喜びが私たちを満たします。 みことばを通して私たちは主との交わりにはいり、内面的に有意義になり、喜びに満たされます。私たちはイエス様を喜ぶことがわれわれの力となるということを経験します。 二番目、交わりの喜び。これは主ご自身との交わりの喜びです。 主のみことばは私たちにとってもっともっと大切な、第一のものとならなければなりません。みことばがわれわれに語りかけることのできることを私たちは主との交わりの中に入ります。 エマオの途上にあった弟子たちが経験したことは、私たちの経験となることが許されています。 ルカの福音書24:32
とあります。主のみことばを求めながら読む人は、喜びのない状態ではあり得ません。というのは、みことばを通して主はご自身を明らかになさるからです。 主のみことばは主ご自身の啓示です。ダビデはこれから主のみことばを喜ぶと証ししたとき、まず第一にみことばを通してご自身を啓示してくださったお方、すなわち主のことを考えていました。すなわちダビデは次のように言うことができたのです。 「私は主を喜びます。主は私にご自身を明らかにしてくださった。主は私に語ってくださった。主は私といっしょになってくださる。」 私たちは、聖書はわれわれに色々なことを教えてくれるもんだと思っているのです。違う。聖書とは主の啓示です。 みことばを通して、主ご自身を知ることこそが最も大切なのではないでしょうか。 だいたいの人間は、知識を得ることによって傲慢になります。ですから、聖書を読んでわかったと言う人は、かわいそう。結局そういう人はもう、傲慢になり、高ぶる者となり、聞く耳がまったくない。 やっぱりイエス様をよりよく知りたいという飢え渇きをもって聖書を読むと、豊かに報いられます。 主との交わりを持つことこそ、主と結び付くこと、主に拠り頼みたいと思うことこそ、すべてのうちに最も大切なことなのではないでしょうか。 発見の喜び、交わりの喜び、そして最後の第三番目、証しの喜びです。 私たちは私たちにとって非常に確信があるものを見いだしたとき、それについてほかの人に話すことはわれわれの願望なのでしょうか。 けど私たちはただ単に何かあるものを見いだしたということだけではなく、ある方、すなわちすべての宝と富がその方の中に隠されているお方を見いだしたのです。 正直に求めながら、みことばを読む人はイエス様に出会います。前に読みましたルカの福音書の24章の中でまた次のように書かれています。 ルカの福音書24:27
私も聞きたかったです。天国行って必ず聞くことがあるけど。すごくかったと思う。主イエス様こそ、聖書全体の中心そのものです。 イエス様を見いだした人は、もはや黙っていることができません。その人はイエス様のことをさらにほかの人に宣べ伝えるに違いない。けどそのときアンデレが経験したことを、その人も同じように経験できるでしょう。 ヨハネの福音書の1章を見ると次のように書いてあります。彼はイエス様に出会ってから、もうもう黙ることができなくなっちゃった。 ヨハネの福音書1:41
ペテロの話なんです。 ヨハネの福音書1:41
約束された救い主 ヨハネの福音書1:41
噂を聞いた。じゃない。キリストに出会った。 ヨハネの福音書1:41-42
彼の生まれた唯一の目的はそれだったかもしれない。自分の兄弟であるペテロをイエス様のみもとに導くこと。 さてここで私たちはもう一度、今まで話したことを短くまとめてみたいと思います。 聖書は神のみことばです。主なる神ご自身の啓示です。すなわちそれは計り知れない宝庫なのです。 その中には多くの富と宝が隠されています。大いなる提供がわれわれになされています。私たちはそれを掘り出し、発見し、見いだすように要求されています。 そのとき私たちは言い尽くすことのできない喜びを知ることができるのです。喜びは引き寄せ、喜びはほかの人の上にも移って行きます。そしてまことの礼拝に導くのです。 何年か前、この集会の愛する兄弟姉妹は思わぬ方法で自分のひとり子を失いました。そして私は葬儀を行なうように頼まれました。 そのとき私はまったく違うテーマについてしゃべったのです。まことの礼拝について話しました。けど私はこのことを決めたあと、電話だけで話し合ったのですけど、心の中では顔と顔とを合わせて両親と会い、その目を見ることに心おだやかならぬものを感じていました。 両親は痛みから精神的に混乱してしまったのではないでしょうか。 親は、「主よ。どうしてあなたはそんなことをお許しになったのでしょうか。」という問いによって、あれを思ったり、これを思ったり、心が乱れるのではないでしょうか。 ご両親は何とかして、無理をしても証しをしようと苦労してるのではないでしょうか。 でも、私はこのご両親に会ったときのことを言い表わすことができない。イエス様ご自身の喜びがご両親から出てきたのです。 それはペテロが、「ことばに尽くすことができない。栄えに満ちた喜び。」と言ってる、その喜びなのです。 「どうして?」、「なぜ?」、「何のために?」というような問いで悪魔はもてあそんだかもしれない。この問いについてご両親は考え始めたならば、結果は悪魔の勝利になるかもしれない。ご両親はヨブと同じように言いました。 主は与え、主は取り去られた。主の御名はほむべきかな。これこそが本当の礼拝なのででしょうか。 この吉祥寺の礼拝に対する知識があまりないようです。私は、いつもはいないですども、残ってる人とはよく悩みます。 ここで立って祈っている兄弟たちはいったい何を考えているの?平気で自分のことについて話すんです。ほかの人々のために祈るんです。礼拝のときだよ。考えられない。 礼拝のとき、結局自分のために祈る必要はない。他人のためにも祈る必要はない。礼拝のときは主が中心にならなくちゃいけない。 イエス様の死。イエス様の流された血について考えれば、自分のことについて話さなくなる。ですから、日曜日、礼拝で立って祈られる兄弟のために祈ってください。光が与えられるように。 普通の教会で礼拝がないのはみんなわかってるでしょ?中心なのは牧師の説教です。この説教はすっばらしいかもしれないけど、礼拝ではない。 初代教会の礼拝とはすべてのすべてでした。未信者が集ったとき、ここで考える。自発的に悔い改めて導かれたのです。 まことの礼拝とは結局私の思いではなく、「みこころだけがなるように。」、この祈りをささげられたイエス様について考えるともう、ちいちゃくなる。やっぱり祝福する。栄光を受けてもらいたい。 今話したご両親は本当に、「あなたがたは今から、どうして、なぜと死ぬまで考えるか、あるいは今からこそ、イエス様のために。全生涯をささげてイエス様望んでいきたいか、自分選ばなくちゃいけない。」 もちろん二人はこの態度をとったのです。だから主は恵んで、祝福して今日まで兄弟姉妹を導くことができたのです。 |