引用聖句:エペソ人への手紙1章3節-14節
今日のテーマは、主の永遠からの予定についてのものです。 今まで何回も、どうしても知らなければならない永遠に変わらない主の成されたことがらについて学んできました。 乱れきったこの末の時にあって、私たちはしっかりとした岩のように堅く立たなければならない。それはだれからも、また何者にもよっても動かされることのない主の事実の上に立たなければなりません。 今いっしょに歌いました歌も本当に大好きな歌です。 私たちはみな尊いイエス様の流された血潮の価値について考えていました。私たちはそれだけではなく、毎日の信仰生活において、このイエス様の流された血が必要です。 ですから、もっともっとイエス様の流された血に対する感謝の気持ちを多くしたいものです。 イエス様の血潮とともにイエス様の十字架についても学んできました。 私たちの古き人はキリストとともに十字架につけられ、死に葬られてしまったことも見てきました。同時に私たちは新しく造られた者としてイエス様とともによみがえられたことも見てきました。 それからもっとも大切なことは、これらの事実がわれわれの個人的な体験とならなければ何の役にも立たないということも繰り返し話しました。 3つの点に分けて考えたのです。第一番目。私たちはイエス様とともに死に、よみがえったという事実、上からの啓示により霊的知識について。 第二番目。この知識が自分のものとなっていると、信仰の計算をすることについて。 そして第三番目。死人からよみがえらされ、主のみこころに従って歩む者として、おのれを主にささげ尽くすことについて考えてまいりました。すなわち信仰への道は知ること、計算すること、またささげることです。 今まで私たちはどうしたら霊的に成長することができるの。どうしたらイエス様に似た者となることができるのでしょうか。憧れの生活を送ることができるのでしょうか。 これらはみなひとりひとりの信者についての問題でしょうけれど、主の考えはもっともっと広い視野を持っておられるのです。 ですから今話したように今日は、主の昔から、永遠の昔からの予定についてちょっとだけ考えたいと思うのです。 主はどういう目的で人間を創造されたのでしょうか。いったいどうして主は滅びゆく人間を救い出してくださったのでしょうか。この二つの問題を今日考えてみたいと思います。 すなわち主の永遠からの創造における予定と、主の永遠からの救いにおける予定に分けて、主の予定を学んでみたいと思います。 主の永遠からの創造における予定とはいったい何なのでしょうか。主はなぜ人間をお造りになったのでしょうか。答えは三つです。 第一番目。主の性質にあずかるためです。 第二番目。主の愛に報い、応えるためです。そして、 第三番目。永遠のいのちを得るためです。 これは人間を造る前に主の持っておられた予定でした。 子どもは何かを作ると、何を作るかはっきり決めないで始めてしまうでしょうけれど、主はそのようなことをなさいません。天地の創造主は成し遂げることができないようなことを始めません。 私たちの救い主なる主イエス様の場合には、先ほどの三つの主のご予定を完全に満足させておられました。すなわち、イエス様は父のかたちであられました。父と同じご性質をもっていたのです。 二番目。イエス様は父の愛に応えることのできたお方でした。ですから父はイエス様に対して、これはわたしの愛する子。心にかなう者であると言われたのです。 三番目。イエス様は永遠のいのちを自らのうちにもっておられたのです。 主なる神の人間に対する創造におけるご予定は何だったのでしょうか。みことばは次のように言っています。ローマ人への手紙8章の29節。よく引用される個所です。 ローマ人への手紙8:29
もう一ヶ所、 ヘブル人への手紙2:10
弟子たちは次のように言えたのです。 ヨハネの福音書1:14
父のひとり子と書いてありますが、父なる神は御子イエス様だけではなく、多くの子らを自分のものとしたいのです。 それからひとり子であるイエス様が長子となることが、父のご目的でした。けれどイエス様が長子となるためには、ほかの多くの子どもがいなければダメです。 主なる神が創造のときに予定しておられたことは、多くの子らをもち、その中でイエス様が長子となることでした。 けれど主なる神は多くの子らを得たいと思っておられましたが、それはあの子、この子と、ほか別々の子どもを欲しておられたのではありません。ひとり子なるイエス様のためにひとりの花嫁を望んでおられるのです。 多くの子らのひとかたまりが聖書の中で花嫁と呼ばれています。多くの子らのひとかたまりがイエス様の花嫁です。全てのまことの信者の一群れです。 これが耳からはいって、単なる表面的な知識にとどまらず、上からの示しによって心の目でこの事実を見ることにより、私たちが変えられれば、本当に幸いです。 私たちひとりひとりが創造におけるこの主のご予定をはっきりと心の目で見ることです。 まことの教会とは何なのでしょうか。いわゆる救われた罪人のひとかたまりだけではない。主なる神は人類が堕落する前に、すでにこの教会を予定しておられたのです。 ちょっと今から第一の人であるアダムを考えてみましょうか。アダムはエデンの園に住んでいました。エデンの園の中央には二本の木が生えていました。それはいのちの木と善悪を知る木でした。結局、いのちと死の木だったのです。創世記の2章を見ると次のように書かれています。 創世記2:7-9
創世記2:15-17
アダムは何がいいか、何が悪いのか分別がつかないように造られていました。 善悪のわきまえを知らない、例えば30歳くらいの男の人を想像してみてください。あなたは成長の遅れた男だと思うに違いない。アダムはちょうどそのような男でした。 主なる神はアダムに、「エデンの園のどの木からでもその実を取って食べてもよろしい。けれど、善悪を知る木の実を食べてはいけない。食べると死んでしまうから。」と言われました。 同じ園の中央に、いのちの木がありました。主は、どの木から取って食べてもよいと言われたのですから、いのちの木の実を食べてもよかったわけです。アダムは罪に汚れてもいませんでしたし、聖くもありませんでした。善悪を知らなかっただけです。 アダムはいのちの木の実を食べるか、善悪を知る木の実を食べるか、どちらかを選ぶ立場に立たされたのです。と言いましても、そのときのアダムはどちらを選んだらよいかわからなかったはずです。善悪の判断ができない人間だったからです。 アダムはただひとつ、主のところに行って、「どちらを選べばいいのですか。」と尋ねることができたはずです。けれどアダムは自らどうすることもできなかった。まったく主なる神に拠り頼んで生活していたのです。 この二本の木は、人の二つの生きかたを表わします。一つは神の生きかたであり、もう一つは人間の生きかたです。 いのちの木は主なる神を表わしています。主はいのちの源そのものです。そしてこのいのちの木の実はイエス様です。木を食べることはできないけれど、木の実は食べられます。 イエス様は食べることのできる実のようなものです。すなわち、私たちが受け入れられることのできる主なる神のかたちです。この木は園の中央にありました。 主は、その実を食べなさいとアダムに強いることをしませんでした。そしていのちの木の隣には善悪を知る木がありました。この木は、私たちは主に尋ねる必要がない。自分でできる。自分でわかる。自分は利口だという姿を表わしています。 主なる神に拠り頼まないことは罪であると聖書は言っています。アダムはついに善悪を知る木の実を食べてしまいました。その時、何が起こったのでしょうか。 まず第一に、主との交わりが絶たれたのです。自分で善悪を知るようになりました。利口になりました。独立しました。 二番目。自由を得たのではなく、逆に悪魔の奴隷になってしまったのです。 三番目。アダムの霊は死に、すなわち主なる神に対する感覚が無くなってしまったのです。 アダムは罪を犯す前に主と交わる能力をもっていましたが、主のいのち、永遠のいのちはまだもっていなかったのです。 もしアダムが主なる神に尋ね、主に拠り頼み続けていたならば、主はアダムをいのちの木に導き、その実を食べることによりアダムに永遠のいのちを、主なる神のいのちをお与えになったのです。 アダムは創造主に造られた者となったばかりではなく、主の子となることができたはずです。自分と拠り頼むことによりアダムは神の子となったはずです。けれど不従順と不信頼によりアダムとそのあとに連なる子孫、全人類は神ののろいの下に置かれたのです。結局この世には三つの生きかたがあると言ってもいいでしょう。神の生活。倫理の生活。動物の生活です。 あるとき、人々はその人を立派なクリスチャンだと思い、その人もまた社会運動を広めることにより、伝道、有名な哲学者がいました。あるとき、ひとりの主を知る人が、その哲学者のところに行って、主なる神の永遠のいのちを受け取ることの大切さについて話したのです。 そのいわゆるクリスチャンの哲学者は、ちょうどそのとき重い病気だったのです。その枕元には犬が一匹おりまして、伝道者はその哲学者に、「この犬の名前は何という名前?」「ストロビー」と答えられたのです。すると伝道者は、「それは苗字ですか。名前ですか。」と尋ねますと、もちろん哲学者は「苗字でもないし、名前でもない。この犬はただストロビーというのです。」と。 その哲学者の名前はコジマでした。伝道者は、「それではコジマさん。今度からこの犬をストロビー・コジマと呼んだらいいでしょう。」哲学者はもちろん怒ったのです。 そこにはコジマさんの娘二人もいましたが、イエス様を信ずる者はみんなに一度説明したのです。「このストロビーという犬はどんなに利口でもバカでも、犬は犬ですから、決してストロビー・コジマにはならない。 同じように、私たち人間がどんなに背伸びしても、人間だから主なる神の生活をすることはできない。私たちはどんなに利口でも愚かでも、よい人間でも悪い人間でも、生まれつきのままなら、主なる神のいのちを自分のものとすることができません。 神の御子である主イエス様を受け入れ、イエス様を食べなければ、神のいのちにあずかることができない。主のいのちにあずかることなくして、主の子どもとなることはできない。」と、信ずる者は哲学者に諄々と説き聞かせたのです。彼はその日、生まれ変わり、神の子となることができ、大いに喜ぶようになったのです。 全人類はアダムの子孫として主ののろいのもとにうめき苦しんでいますけれど、主なる神の永遠からのご計画は、人間がこの状態になることではありませんでした。人間が神の性質にあずかり、神の愛に応え、永遠のいのちをもつことが主のご予定でした。 イエス様は多くの兄弟たちの中で長子となるために、主は多くの子らをお求めになっております。けれども主に対する不従順と主に拠り頼まない心から全人類は主のご予定に反し、主ののろいのもとに、あわれにも陥ってしまったのです。 このようになってしまった人間に対して主は、なおかつご自分のご予定を最後まで成し遂げることができるのでしょうか。 前から言っていますとおり、主のご予定は永遠からの予定です。どんなに罪がはいって来ても、主の予定は狂うことがありません。 私たちの主は、先の先まで、また全てのものごとを見通しておられるお方です。なにものによっても驚かれることのない神です。 私たちの主は、決して行き詰まってしまうことのない、知恵に満ちておられるお方です。私たちの主は、不可能を知らない、全能なる力の神です。 今まで、主の永遠からの創造における予定について考えたのですけれども、今度はちょっと主の永遠からの救いにおける予定についてちょっと考えたいと思います。 なぜ救いが必要になったのでしょうか。主の永遠からのご予定のために救いがもちろん必要です。残念なことに多くの人は、このことを知っていないようです。 主なる神は人類に神の永遠のいのちを与えたいのです。主は人間をが堕罪する前から、人間には永遠のいのちが必要であることを知り、永遠のいのちを与えようとしておられるのです。 いのちの木は人間が罪を犯す前に、もうすでにエデンの園の中央にありました。人間が罪に陥る前に、主なる神は御子イエス様で表わされる木の実を人間に差し出すことにより、ご自分を人間に与えようとされていたではありませんか。 ですから主なる神の永遠のいのちは罪の赦しを得させる薬のようなものではない。永遠から主なる神が予定されていたことです。救いにおける主のご予定はいったい何なのでしょうか。何のために主は人を救う必要があったのでしょうか。 まず第一番目。アダムが失ったものを回復するために、元通りにするために、また悪魔のわざを滅ぼすために救いが必要でした。けれどそれだけではなく、第二番目。主なる神の永遠からのご予定が成し遂げられるためにも救いが必要でした。 私たちは今日まで何回も救いが必要な理由の、この一番目の理由について学んで来たのです。すなわちアダムが失ったものを元通りにするために、すなわち人類の罪が尊い主イエス様の流された血潮により祓われ、古き人が十字架につけられ、主イエス様とともに死に、アダムの堕罪以前の状態に回復されたという事実を学んで来たわけです。 イエス様の血潮と十字架はアダムによって失われたものを回復する手立てでした。 この罪をおおう血の力、罪から解放する十字架の力を自ら体験した者は本当に幸せです。けれどもまだまだそれを超えて広いところがあります。主なる神の永遠のご予定が実現されていかなければいけません。そしてこの主のご予定は、罪と何の関わりのないものです。 あまりよい例を言っていないかもしれませんが、ドイツに面白い童話があります。 あるときひとりの洋服屋さんがパンを食べていました。パンの上に七匹のハエが止まっていましたが、そのまま洋服屋さんは新聞を丸めて振り下ろすと、いっぺんに七匹とも死んでしまったのです。 その洋服屋さんはそれから背中に看板をぶら下げて、『一撃で七匹、いっぺんに殺した。』と書いて世界中を練り歩き、恐れられた、またすばらしい成功を収めたという面白い話がありますけれど、生けるまことの神は御子主イエス様の死によって人間の罪の赦し、罪の力から解放されただけではない。この一撃で多くのよりすばらしいことを成し遂げられたのです。 主なる神の永遠からのご予定がひとつの狂いもなく、成し遂げられたのです。けれども多くの信者は、・・・ (テープ A面 → B面) ・・・と御子イエス様の御救いを思うとき、上からの光によってそれを知るとき、ただ御前にひざまずき、礼拝せずにはおられなくなるのです。私たちの罪が赦され、古き人の力が抹殺される。 それよりももっともっと広い偉大な主のご予定がついております。父なる神は御子を多くの兄弟の長子とし、多くの神の子を求めておられたのです。ですからイエス様は自らのいのちを差し出されました。 イエス様が十字架に架かり、さばかれ、われわれの罪の負い目を自ら負われ、私たちの古き人の力を抹殺されました。そればかりではなく、十字架に架かり、自らのいのちを死に渡されたのです。 ですからイエス様の死はアダムが失ったものを回復するため、すなわち罪の赦しと罪の力からの解放だけではなく、自らのいのちを与えることにより、人類に永遠のいのちを得させるための死であったと言うことができるのです。 エペソ人への手紙の5章の25節を見ると次のように書かれています。 エペソ人への手紙5:25
これはイエス様の死の積極的な面です。イエス様は私たちの罪と罪の力のために亡くなられたばかりではなく、私たちの永遠のいのちのために亡くなられたのです。 この事実をしっかりとつかむために、最後にちょっと4つの例をもって考えてみたいと思います。第一番目。アダムが眠らせたエバが造られたことです。 創世記2:21-23
そして今読みましたエペソ人への手紙の個所、本当は共にいっしょに読むべきでしょう。 エペソ人への手紙5:25-27
主の教会とは何であるかと考えると、私たちは救われた罪人の集まりであり、その裏には罪が大きく場を占めていると考えます。 主なる神の目から見た教会は違います。主の教会は御子から取り出したものであり、これは神が永遠の昔から予定されていたところのものであり、罪の影すら見えない、罪とは関わりのないものです。 私たちは今までの学びを通してわかるようになったことでしょうけれど、イエス様の死は罪に陥り、神なく、望みなく歩む者のため、また神に敵対する者のためであったことがわかります。 けれども、このエペソ人への手紙5章25節を見ると、イエス様の死は罪が罪のためだけではなく、違ったご目的のためでもあったということがわかります。キリストは教会を愛して、そのためにご自身をささげられた。この主の愛を御霊は夫と妻の間の愛に例えています。 エペソ人への手紙5章には、イエス様が罪のために亡くなられたことについては、本当は書いていない。教会を立て上げられるためにご自身をおささげになったことが書かれています。 これを説明するためにパウロは創世記2章を取り上げたのです。創世記3章以下を読んでいきますと、主なる神はアダムとエバの罪を負うために動物を殺し、その皮を着せたことが書かれています。 引き続いて、カインとアベルのささげものの問題、また多くの動物がいけにえとしてささげられたことも記されています。 けれどもこれらは全部イエス様の死が罪人を赦し、きよめるためであったことを象徴しています。すなわちイエス様は罪人のために亡くなられたという面を物語っています。 けれどもイエス様の死は罪のためばかりではなかったということを教えてくれる個所が旧約聖書の中にあります。それは今話したように、堕罪の前、創世記2章です。 パウロは御霊の導きによりこの創世記2章を例に取りました。主なる神はアダムを眠らせました。もし信ずる者が死にますと、その死について聖書は、「死んだ」ということばをあまり使いません。「眠った」と言います。 信者は罪を赦されて、永遠のいのちをもっていますから、「死んだ」と言わないで、「眠った」と言います。 アダムの場合もそうでした。アダムが罪を犯す前のことだったから、「眠った」と言っているのです。主なる神はアダムを眠らせました。罪を犯したからではない。そのあとで罪を犯したのです。エバが罪を犯したために、アダムは眠らされたのではない。そのときエバはまだ造られていなかったのです。 眠らされたのはアダムから何かを取り出して、新しいものを造り出すためでした。アダムはその妻エバを造り出すためでした。主なる神はアダムから妻のエバを取り、造り出すためにアダムを眠させました。結局アダムは死んだ。 アダムの死はイエス様の死をもちろん象徴しています。救いは罪の薬にすぎません。救いはアダムが後に罪を犯したから必要となったのです。 けれど主なる神の永遠からのご予定は、罪から救い、元通りにするといったことではありませんでした。 多くのキリスト者は救いだけを考えて、人間は救われるために造られたかのように考えています。 アダムは永遠のいのちを得させるいのちの木の実を食べませんでした。ですから永遠のいのちをもっていなかったのです。単なる造られたいのちしかもっていなかったのです。 例えアダムが罪を犯さなかったとしても、イエス様はどういう方法によったか知りませんけれど、人類に永遠のいのちを与える必要があったのです。けれどアダムは罪を犯しました。ですからアダムが罪を犯す前に必要だったものに加えて、罪の赦しも必要となったのです。 アダムは本当に救われるため、永遠のいのちを得るためにイエス様は犠牲になったのです。主は自らのいのちを与えることにより、人類の罪を赦し、それを加えて、アダムが罪を犯す前に必要としていたもの、すなわち永遠のいのちまで同時にお与えになりました。驚くべき主のみわざです。 ですから信者は堕罪の前にアダムがもっていたものよりも、もっと多くのものをもっているわけです。 キリスト者は永遠のいのち、神の子、主イエス様の兄弟、これらのすべてをもっているのです。 アダムはエバが生み出されるために眠らされました。エバは別のものとして造られませんでした。アダムのからだから取り出されていたのです。 同じように、主なるイエス様は死の教会をともによみがえらされました。教会は主から取り出されたものです。イエス様は十字架に行き、自らを死に渡されましたが、それは傷もしみもない教会を、花嫁を、着飾った花嫁を生み出すためにそうされたのです。 二番目の例は、一つの麦が死に、多くの実を結ぶことです。ヨハネの福音書12章の24節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書12:24
この例えを使って考えたいと思います。 この一粒の麦はだれでしょうか。いうまでもなくイエス様です。神のいのちは神のひとり子であられるイエス様の中にだけあります。そしてこの一粒の麦は土の中に埋められて死んでしまいました。どうしてでしょうか。 それはほかの多くの麦が罪を犯したからなのでしょうか。いいえ。まだ多くの麦はそこにありませんでしたから、そうではない。ほかの麦を、多くの実を生み出すために一つの麦は死んだのです。 一つの麦である主イエス様は贖い、罪の赦しを得させるために十字架で死なれただけではありません。多くの実を生み出すために自らを死に渡されました。一粒の麦の死はほかの実を贖うためではなく、ほかの多くの実を生み出すためでした。 キリストは教会を愛し、そのためにご自身をささげられた。一粒の麦は死ぬことにより、多くの麦粒の中で第一の麦粒となりました。ひとり子は死により多くの土台たちの中心となりました。 この事実はヨハネの福音書1章と2章を見るとよくわかります。1章の14節。前にちょっと読みました個所なのですけれども、 ヨハネの福音書1:14
父のひとり子とイエス様は呼ばれていますが、その後20章までの間にイエス様は死んでよみがえられたのです。そしてヨハネの福音書20章の17節を読むと次のように書かれています。 ヨハネの福音書20:17
1章からずっとイエス様は父なる神を、「わたし」と単数形、「わたしの父」と呼んでこられましたが、死とよみがえりのあとでは複数形、「あなたがたの父」と呼んでいます。また信ずる者を、「わたしの兄弟たち」とお呼びになりました。 ひとり子なるイエス様は長子となられたのです。父なる神は今や多くの子どもをお持ちになり、御子主イエス様は多くの兄弟たちのところに行って伝えなさいと言われたのです。 ヘブル人への手紙の中で、また次のように書いてあります。 ヘブル人への手紙2:11-12
三番目の実例はルカの福音書に書かれています。すなわちイエス様が洗礼を受けられて、火が通されたことについての個所です。 ルカの福音書12:49-50
主イエスが来られたご目的は、私たちの心の中にイエス様の霊が火となって通されるためでした。 けれどもイエス様が肉体のかたちをとっておられたとき、イエス様の代行者、御霊はまだくだりませんでした。 わたしには受けるバプテスマがありますと言っていますが、これはイエス様の死を意味しています。これを見ますとイエス様の死は人類の贖いだけでなく、心にご自身の霊を火と降り注ぐためだったことがよくわかります。 イエス様は死によって、肉のかたちのイエス様から霊のかたちの主イエス様となられたのです。イエス様は今や私たちとともにおられるイエス様だけではなくて、私たちのうちにおられる主です。 私はうちに火のように燃える神の霊により、主イエス様の霊により神の子となりました。 ローマ人への手紙の8章の15節、16節を見ると次のように書かれています。 ローマ人への手紙8:15-16
最後に第四番目の例は、人の子の肉はいのちであることについてです。 ヨハネの福音書の6章35節を見るとイエス様は次のように言われたことがわかります。 ヨハネの福音書6:35
イエス様は、「わたしは、天から下って来たパン。生きるパンである。わたしを食べる者はわたしによって生きるのです。」と言われました。 ユダヤ人たちはそれを聞いたとき、そのことはできないと言いました。もっともなことです。肉体のかたちをとっておられたイエス様を食し、受け入れることは全く不可能です。 イエス様は自らのいのちを与えるために死ななければいけませんでした。イエス様は死とよみがえりにより、だれも食べ受け入れることのできるよみがえりのからだ、霊のからだとなりました。 ヨハネの福音書の1章12節、13節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書1:12-13
とあります。 イエス様は私たちの生活を改善しようなどとはされませんでした。ご自身のいのちを私たちに与えたかったのです。同じく6章の51節。 ヨハネの福音書6:51
主なる神の永遠からのご予定は、人間のうちに神のいのちが、永遠のいのちが宿ることでした。そのためにイエス様は自らを死に渡されたのです。 ヨハネの福音書6:57
イエス様によって生きるということは自分ひとりでは何もできない。完全にイエス様に拠り頼まなければならないということを意味します。 多くの兄弟姉妹は、いい信者はすごい人々であると考えています。けれどいい信者は主によって生きる人々です。私たちは強くなるために力は要りません。イエス様が私たちのうちに宿り住んでおられるのです。 こうなりますと、「主よ。忍耐を与えてください。兄弟を愛する愛を増し加えてください。」と願うより、「自らは忍耐も愛も無い、うちに住んでおられるイエス様よ。あなたが忍耐し、あなたが愛させてください。」ということになります。これが主に頼る生活です。 すばらしい金持ちがお嫁さんをもらいました。お嫁さんは何も持っていなかったけれど、夫にあって多くの財産を自分のものとすることができました。 結婚によりふたりは一体となりました。 創世記2:24
そして前に読みましたエペソ人への手紙5章31節。 エペソ人への手紙5:31
パウロは続いてエペソ人への手紙5章の32節に、 エペソ人への手紙5:32
エバがアダムから取り出され、二人は一つとなったように、教会はイエス様から取り出され、イエス様に用いられ、栄光の信用とともに一つにされたのです。 イエス様は聖霊によってマリヤの胎に身ごもりました。 マタイの福音書1:20
私たちも同じように聖霊によって、主によって生まれ変わったものです。 ですからイエス様はニコデモにヨハネの福音書の3章5節で言ったのです。 ヨハネの福音書3:5
ヨハネの福音書1:13
とあります。 イエス様と私たちのいのちの源は同じです。イエス様が天国でもっておられるいのちを私たちにお与えになりました。ですから私たちは主に喜ばれる生活が送れるはずです。 私たちの生活が改まったのではなく、イエス様のいのちがわれわれのいのちとなっています。 今日は神の永遠からのご予定についてちょっと考えました。 主の永遠からの予定は、罪と何の関わりもないということがはっきりわかります。 イエス様の死によって私たちはアダムが堕罪する前にもっていたものより、もっともっと多くのものをもつに至ったということも大切に覚えるべきではないでしょうか。 罪が赦され、古き人が殺されたばかりでなく、主なる神のもっておられる永遠のいのちにあずかる者とされたのです。 永遠のいのちをもつことにより神の子どもとされ、主イエス様の兄弟とされたのです。 イエス様を受け入れた者ひとりひとりは神の家族の一員とされたのです。私たちはこの世に求めるものを何一つ持ち合わせていません。この世に望みになるようなものは何も無いはずです。悩みや苦しみを通して主は私たちの心に天国を慕う思いを置かせ、全き者としてくださいます。 主なる神の予定とは何なのでしょうか。前に読みました個所をもう一回読んで終わります。 ヘブル人への手紙2:10
そして、 エペソ人への手紙5:25
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない聖く、傷のないものとなった栄光の教会をご自分の前に建てられるのです。 次の約束が成就されます。 ヨハネの黙示録19:6-7
これこそ主の永遠からの予定です。 主なる神がこれに対し、われわれの心の目を新たに開いてくださったら、本当に幸いと思います。 |