引用聖句:マタイの福音書25章1節-13節
今日は、少し主イエス様の再臨について考えてみたいと思います。題名は「用意ができてるの?」あるいは「愚かか賢いかのどちらですか?」「備えあれば憂いなし」と言ってもいいでしょう。 ここで愚かな5人、賢い5人について書かれています。ちょっと驚くべき言葉も出てきます。10節「戸がしめられた。」もう終わり。どうしてであるかと言いますと、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」、そうすると確かにおしまいです。 我々は今、世界の歴史の夜の時に生きているのではないかと思います。真っ暗な夜の時に向かっています。もし私たちが毎日、ラジオや新聞やテレビで世界の動きを眺めると、世界はますます深く主なる神を無視し、主なる神のみことばに対して無関心になり、そして真っ暗な雲のような暗やみの力の中に沈んでいく様子がよく解かります。 次の大きな世界の出来事は、主イエス様の日、すなわちイエス様が雲にのって再びおいでになり、そして信じる兄弟姉妹をご自身のもとに引き寄せ、空で彼らにお会いになる、その日の出来事です。 聖書は、この将来の偉大なる出来事について、何と言っているのでしょうか。おそらく皆思い出す箇所は、テサロニケ人への手紙第Iの4章なのではないでしょうか。 パウロはどうしてあの手紙を書いたか。結局当時の誤解され、憎まれ、迫害された人々を励ますためです。4章13節から読みましょうか。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。 この箇所に3つの事実が明らかにされているのではないでしょうか。 第1番目、イエス様ご自身が、天から再びおいでになるということです。 第2番目、主イエス様にあって死んだ人々のからだが、よみがえるということです。 第3番目、それから生き残っている主の恵みによって救われた一人ひとりが、変えられ、よみがえった主のものになった人々と共に雲の中で主イエス様に会うということです。 すなわち、第1番目、イエス様が、信じる者の前に姿を現す日です。第2番目、イエス様に属する者が、イエス様の前に姿を現す日です。 私たちはイエス様の真の姿を見るようになります。それは考えられないすばらしい瞬間でしょう。イエス様の真の姿を見るとは、考えられない栄光です。目に見えない方は、その覆いをぬぐい捨て、イエス様は我々の目の前に深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立つのです。 マタイの福音書17章1節、2節を見ると、イエス様の当時の変えられた姿について書いてあります。 マタイの福音書17:1-2
この山の上における主イエス様の変容は、来るべき日に私たちが見るであろうところのものの単なる予感にすぎません。 使徒の働き1:11
イエス様が再び来られます。この日は、イエス様が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり、歴史的な真実です。 イエス様はあの時、信者たちの目の前に消えたと同じように現れます。けれど、最後の日は信者たちの前にイエス様が姿を現す日ばかりでなく、2番目ですね、イエス様の前に信じる者が現れる日です。 その日には、本当に信じていた者、すなわち主イエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされるのです。ただ口で「主よ、主よ」と言っているのか、それとも本当に主の恵みによって、永遠のいのちを持つようになったかが、明らかになります。次の箇所を見ると解かります。 マタイの福音書25:22-23
何と良い言葉、褒め言葉なのではないでしょうか。けれど、同じくマタイの福音書7章の中で、ちょっと考えられないことばが書かれています。 マタイの福音書7:21-23
どういう愚かな羊でさえも、羊飼いが解かる。 ここで「わたしはあなたがたを全然知らない。」と書いているから、彼らは、自分は信じてるからOKと思い込んでしまっただけで、本当の意味で新しく生まれ変わっていなかった。 このマタイの福音書25章に出てくる、5人の愚かな乙女と5人の思慮深い乙女の2つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。 この愚かな乙女たちは、ランプ、形式、外部の入れ物を持っていますが、彼女たちは油と中身と、真のいのちを持っていなかった。すなわち彼女たちは、みことばを聞き、祈り、聖書も読みますが、形だけだったのです。 けれど思慮深い乙女たちは、油すなわち聖霊とまことのいのちそのものを、形も含めて持っていました。 その日は、愚か者と思慮深い者を分かち、その一方は「わたしはお前たちを知らない」と言われ、もう一方は「お入りなさい」と言われるのです。イエス様のからだの肢体である者が、確実に明らかになります。 エペソ人への手紙5章30節に「私たちはキリストのからだの部分だからです。」とあります。イエス様は、信者たちを呼び、そして彼らは主イエス様の方に向かって急ぎます。すなわち墓場から、海から、または信じる者のからだのある所、どこからも信じる者のからだは、この偉大な第一の復活の日を共に祝うためによみがえるようになります。 またその日、この地上に永遠のいのちを持っている、救われた者たちは、特別な特権を持っているのです。すなわち彼らは、死を見ず墓を知らないのです。すなわち彼らは、一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。 すべての本当の救われた人々のために、その救われた者たちが、その日に、死んだにしろ生きる者に数えられたにしろ、この日は死に対する勝利です。 救われた人々は、新しいからだを持って、イエス様に会うようになります。このからだとは、イエス様がよみがえりの日に身につけたと全く同じよみがえりのからだです。 コリント人への手紙第Iの15章は、いわゆるよみがえりの書と呼ばれているものです。 コリント人への手紙第I、15:23、51-52
その日には、多くのことが起こります。私たちがキリストにあったということが明らかになります。そして主イエス様における新しく造られた者は、一瞬にして完全にされます。 すなわちヨハネの手紙第I、3章2節を見ると、私たちはキリストに似た者となると約束されています。 ヨハネの手紙第I、3:2
原本を見ると、確信しています、 ヨハネの手紙第I、3:2
なお私たちの身についているすべての汚いものは清めおち、私たちの内にある主イエス様は、すばらしき形の内に姿を現すのです。その時、次のことばが全く完成されます。すなわち「古いものは去って、見よ、すべてが新しくなった。」、蝶蝶が蚕を脱ぎ捨て、翼を広げると同様に、古きものは私たちの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあるのです。 この瞬間に、すなわちこの世で最も大きな悩みであった私たちの罪が、もはやなくなる時、そして罪のもと、すなわち私たちの生活の最も深い悩みであるそのもとがなくなる時、すべてが新しくなり変わり、我々の願いは完全に満たされるのです。 けれど、その偉大な日には、私たちの全生活もまた主イエス様の光の前に現れるのです。心の中にイエス様の姿を宿している救われた一人ひとりは、イエス様の恵みの座の前に立つようになります。聖書は、裁きの座と言っているのですけれど、本当は恵みの座なのではないでしょうか。 コリント人への手紙第II、5:10
聖書は2つの裁きがありますが、これは栄光かまたは破滅かを決定する裁きではありません。その日、この世における一人ひとりの救われた者の生活、働きが主の火によって試されるのです。 すなわち信じる者の行なった結果によって、主は救われた人々に報酬、褒章、王冠を分け与えるのです。 コリント人への手紙第I、3:11-15
その日が我々の生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金、銀、宝石、木、草、わら、すなわちイエス様から出たものかまたは自分から出たものかを明らかにするのです。 失われるいのちは、何と悔やまれることか、それは取り戻すことも取り替えることもできません。永遠の実を結んだいのち、これは大きな喜びであり、勝利です。もしその日、イエス様は私たちに次のように言うことができれば、感謝です。 前に引用したマタイの福音書25章23節です。 マタイの福音書25:23
世の中の人々の目に大きく映り、そして多分信じる者たちの前にも大きく見られる、多くの人々は彼らの生活が木や枯れ草やわらのように火の中に消えるのを見るでしょう。それは反対に人々から忘れられ、隠れて生活した人々、そして信じる者同士に語られなかった多くの人々は、金を与えられるでしょう。 我々の生活に何が残るのでしょうか。私たちが本当にイエス様から出て、イエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したか、どちらでしょう。この火がそれを明らかにします。 その日は、真の救われた人々にとってすばらしい日です。聖書はそのすばらしさを表現するために、ただ一つのことばで表現しています。すなわち栄光ということばです。 コリント人への手紙第I、2:9
パウロもローマ人への手紙8章18節に「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と書いたのです。 今の時の我々の悩みは、いかに重く深いことでしょう。けれどこの栄光はそれに比べると、限りなく大きいものであり、この世の苦しみは将来の栄光に比べると取るに足りないとパウロは判断したのであります。 初代教会の特徴とは何であるかと言いますと、「イエス様は近い、イエス様はすぐ来られる」こういう待ち望みでした。 「イエス様は来られる」このことばは初代教会において、口から口へ語り伝えられ、そしてこのことばは、当時の証し人たちに迫害の最中において絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのである。彼らは、欺かれたのでしょうか。それとも彼らは空しく待っていたのでしょうか。 イエス様が「わたしは再び来る。しかし、その時は父が定めておられる」と語られたからというもの、このことばは、生き生きとした信仰の本質を成すものであり、イエス様の再臨の事実が目の前に生き生きと認められるのです。 すなわち、多分今日にも来られる。 ある信者が、この世に生きていて、イエス様の再臨の日を、あたかも彼がその日をこの肉体で体験するように、生き生きと目の前に感じていないかぎり、その信者はイエス様の戒めに逆らって行動するのです。 イエス様は、私たちがその日は今日かもしれないという希望の光によって、毎日を捧げることを望んでおられます。 再臨の日は、五旬節に始まったことが完成される日であり、五旬節は、この世におけるイエス様の教会の始まりであり、そしてイエス様が姿を現されるこの日は、この世における教会の時代の終わりです。 イエス様が再臨され、信じる者一人ひとりを引き上げになる時、聖霊も一緒に引き上げられます。なぜなら、聖霊は信じる者の内に住んでいるからです。もし聖霊がないなら、悪魔が完全に支配するようになります。 最近の新聞、ラジオ、テレビなどの報道を見たり聞いたりすれば、悪魔の活躍がよく解かる。けれど、悪魔はその目的を達していないことも解かります。それは、この世に聖霊の宮になった兄弟姉妹がいるからです。 地上に取り残された人々には、何が起こるのでしょうか。それは恐ろしいことであり、彼らは非常な困難の内に生きねばならない。 信じる者にとって過ごす一秒一秒は、失われていく者を救うために、そして彼らが恐るべき運命と、非常な悲しみに入ることがないように利用することが大切です。 イエス様の再臨という希望は、初代教会の時ほど生き生きとしていた時はなかったんです。そして当時ほどイエス様のお告げが、生き生きと力強かった時はなかったんです。 主は、すぐ来られると期待している者は、誰でもイエス様の使命を一秒も早く行なわなければなりません。すなわち、「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を述べ伝えよ。」という使命です。 私たちはすでに何と多くの無駄な時を過ごしてきたのでしょう。私たちは、私たちの主がなかなか来ない、だから私たちの主の使命を怠けるのだと考えたことがありませんでしょうか。 私たちは、イエス様が我々と雲の中でお会いになる、その偉大な日に、信じない人々に起こることを、あまりしばしば考えません。その日をはっきりと目の前に感じている人々は、その者の隣人や知り合いの人々を、心から案じます。 イエス様は、私たちにその日は、ノアが箱舟に入った日と同じであろうと言われました。すなわち、人の子の現れるのもちょうどノアの時のようである。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらっていくまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのもそのようであろうと言っておられます。そのように恐るべき滅亡が、信じない者の上に来るのです。 私たちがまだ救われていない人々に、我々が何を体験したかを話すだけで、なお多くの人々を私たちは導くことができるでしょう。 あなたが今、汽車が壊れている橋に差しかかったのを見たと信じますとどうします。その時あなたはどうしますかね。汽車を止めようとして、あらゆる努力をするのか、それともそこに座ったまま、ただ見ているのでしょうか。 何という恐ろしいことでしょう。あなたは汽車の中の幾百人の滅亡に責任を持っているのです。私たちの近くには、幾千の人が深みに落ち込んで行くのを見ませんか。そして、私たちはその人たちに注意しないのでしょうか。私たちは責任がある。 我々の生活における生き生きとした希望の力、強い原動力に私たち信じる者は欠けているのではないでしょうか。 イエス様は、みことばの内に非常にはっきりと語っておられます。イエス様は、今日の時代においても、世界の出来事を通してはっきりと解かるように語っておられます。 その時は近いと主は、我々に呼びかけておられます。イエス様は、すぐ来られるという事実を信じましょう。 |