若い者たちよ


ベック兄

(吉祥寺福音集会、2004/10/24)

引用聖句:哀歌3章27節
27人が、若い時に、くびきを負うのは良い。

テモテへの手紙第I、4:12
12年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。

ヨハネの手紙第I、2:14
14若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

この間の御代田で、「若者たちのために、一度話してもらいませんか。」と頼まれました。
私はだいたい毎年一回しか土・日曜日に吉祥寺にいないから、やっぱりちょっと難しいと思ったんですけど、喜びの集いの日程が変わったから、ちょうど今日空いてたからこういうふうになったんです。

どこでやるべきか、どなたとどなたが話したのか分からないけど結果は集会所でのほうがいいということになったんです。
確かにそうかもしれない。なぜならば、年配の方々の考えと若者たちの考えとは違うかもしれないけど、年配の方々の考え、あるいは若者の考えとは大切ではないなのではないでしょうか。
聖書は何と言ってるかそれだけなんです。

ですから左側、右側に座ってる若者は集会の将来なのではないでしょうか。ですから彼らをやっぱり非常に大切にすべきなのではないでしょうか。
彼らはサムエルのように、ダビデのように、テモテのようになってもらいたい。この三人、サムエルのこともダビデのこともテモテのことも考えると、彼らはやっぱり色々なことで悩みました。

だからエレミヤ哀歌に、「人が、若い時に、くびきを負うのは良い。」、かわいそうなのではない。
若い時苦労していない人はあとで必ず普通の人よりも悩むようになります。

サムエルとは若者でした。何歳であったか分からないけどおそらく5、6歳から親から離れて、エリという大祭司と一緒に住むようになりました。
聖書は次のように言っています。

サムエル記第I、2:26
26一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。

これは私たちについて言うことができればすごいなのでしょうか。サムエルは、主にも、人にも愛された。

サムエル記第I、3:1
1少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。

人間ではない。主に仕えていた。

サムエル記第I、3:1
1そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

サムエル記第I、3:10
10そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

このサムエルとはどうして多くの人々の祝福になったかと言いますと、聞く耳を持っていたからです。「語ってください。しもべは聞いております。」
ダビデについて次のように書かれています。サウルは当時の王さまなんですけど。

サムエル記第I、17:33
33サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」

けども若さと関係なし。ダビデは若者として勝利を得たのです。引用聖句の箇所も、同じようなこと言ってるんじゃないでしょうか。

ヨハネの手紙第I、2:14
14若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者

悪魔です。悪魔

ヨハネの手紙第I、2:14
14に打ち勝ったからです。

若いなのにどうしてそんなに強い者になっちゃったかと言いますと、みことばが、あなたがたのうちにとどまったから。
テモテについてパウロは書いたのです。

テモテへの手紙第II、3:15
15また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

彼は幼いころから聖書の話を聞いて、救い主なるまことの神のことを聞いて、けども彼は信じただけではない。
今日の来られた若者の大部分は、「信じてる。」と、けど今からどういうことになるなのでしょうか。テモテはパウロのもっとも親しい同労者になったんです。若かった時だけではない。

ピリピ人への手紙2:20-21
20テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

信仰があってもイエス様のことを無視して、自分のことを第一にすることは可能です。
結局、いつも覚えるべきことなのは、大切なのは聖書です。
確かにほかの人に従うこととは、それは親に従うこととは全然面白くないからかもしれない。けどもそのときね、大切なのは、聖書は何と言ってるかだけなのではないでしょうか。

詩篇の119篇。一番長い詩篇なんですけども、176節までありますが、これを読めばもう帰ってもいいでしょう。けども2、3節だけ読みましょうか。

詩篇119:9-16
9どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。
10私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
11あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
12主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。
13私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。
14私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。
15私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。
16私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

このダビデのように思うと、大いに祝福されます。

聖書とはもちろん勉強しなくちゃならない教科書よりも元気の素であり、みことばに頼るとやっぱり主は守ってくださり、導いてくださるのです。
神のみことばである聖書だけが何が正しく、何が間違ってるかをはっきりと言ってます。
だから子どもを、また中高生を責任感を持って教育したいと思うなら、自分でみことばを読み、そのことばを若者に言わなければならない。

3,000年前にダビデ王は次のように告白したのです。

詩篇119:105
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

ですからどうしましょうかと考えるとき、飢え渇きをもって聖書を読んでください。

イエス様はまた約束してくださいました。「わたしを信ずる者はだれもやみの中にとどまることがない。」と約束しておられます。
したがって大切なのは、主イエス様を信じ、主イエス様を受け入れ、それからイエス様に従うことです。

ただ人間ひとりだけの力では、決して暗やみから脱出することはできません。ただ人間だけの力によっては、決して良心の呵責からの解放は実現できないでしょう。
そしてただ人間だけの力によっては、決してまことに満たされた生活を知ることはできません。

これこそイエス様が永遠から持っていた父の栄光を捨てて、この罪だらけの地上に来てくださり、大いなる犠牲を払ってくださった理由です。
また、罪をまったく知らないお方として、われわれ一人一人のために罪のかたまりになってくださるという大変な犠牲を払ってくださったことの理由であります。

私たちこそ本来、主なる神のさばきを受けるべき者でした。けどもイエス様は私たちの身代わりとなってそのさばきをご自身の上に受けてくださり、そのことを通して贖いの道を開いてくださったのです。
主イエス様を信ずる信仰とは、取りも直さず光に来ること。すなわちイエス様のみもとに来ることです。
そしてイエス様のみもとに来る者は受け入れられ、その債務は赦されるのです。

確かに中高生のために祈り、そして奉仕してる兄弟姉妹は、もちろん親もそうですけど、「どうしたらいいの?」とよく考えます。
けど、いくら考えても困ってる人、大いに悩んでる人々はいます。
「喜びの種であった子どもは、知らないうちに悩みの種になっちゃった。どうしよう。」

確かに世界一の親でさえも、自分の子どもを思うように育てられません。イエス様が来られてくださらなければ、もうお手上げなんです。
ある車の窓に一枚の次のような文章の書かれた紙切れが貼っていました。「どうか私について来ないで。私は道に迷ってるから。」と。

教育の問題についても同じようなことが言えるなのではないでしょうか。
教育とはいったい何なのでしょうか。ヘブライ語でyaw-sar’です。その意味は教育すること。訓練すること。教えること。
ギリシャ語でδιδασχωと言いますが、それもまったく同じように、教育すること。導くこと。訓練することというような意味を持ってます。

けど実際は、教育という言葉によって多くの人は、単なる頭の知識を与えることだと思い込んでいますが、それは間違いです。
大切なことは教育を与えること。啓蒙すること。また、訓練することなのであります。

私たちは意識して神のみことばである聖書を大切にしたいものです。
昔のイスラエルの民は、本当にみことばを大切にしたのです。責任感を持ってみことばを子どもに教えたのです。
証明なる箇所はちょっと、3箇所読みましょうか。全部申命記から。

申命記6:4-7
4聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
5心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
7これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

申命記11:19
19それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。

子どもたちに教えなさい。

申命記31:13
13これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。

主を恐れることとは考えられないほど大切です。
恐れることとは心配する、不安を抱くことなのではない。
けども、「私は迷える羊のような者で、教えてください。あなたが私を守ってくださらなければもう無理!お願いします。」、この心構えを持つことです。

何が人生に意味と内容を与えるなのでしょうか。今日多くの人がこのような質問をしています。
現代人は確かに近代的かもしれないけど、一番深い心の奥底では満たされていません。
現代人は本当の意味で頼るべきものが何もない。すなわち不満足の感情がそこにあるのです。

「きっと別の人生があるなのではないか。」、「人生とはこんなに虚しいものであるはずがない。」と思って、多くの人々は真理や本当の救いを求めています。
結局人間は偽物ではなく、本物を必要とします。本物とはもちろん物ではない。十字架の上で犠牲になられ、復活なさり、今日も支配しておられる主イエス様です。

イエス様を体験的に、個人的に経験するまで、本当の満足感はあり得ません。
ただイエス様に出会って、イエス様に従う者だけが本当の幸せ、また本当の意味での満たされた人生を経験することができるのです。

ある運転手が車を停めて逃亡者に道を尋ねました。聞かれた人はもちろん道を教えてあげたとき運転手は疑うように尋ねました。「これが一番いい道なの?」
するとその人は答えました。「これしか道はないのです。」
本当にイエス様しかない。イエス様は道を示す者よりも道です。「わたしだけが唯一の道そのものである。」とイエス様は言われました。

教育についても私たちは必要としてるのは、新しいものでもないし、近代的なものでもない。本当のものを私たちは必要としてます。
本当の道、本当の目標はただ主イエス様の内にのみあります。

大部分の中高生たちは、親からまた集会でイエス様のなされた救いのみわざについて聞いて、一度素直に信じ受け入れたんですけど、しかし忠実に従うことなしに、本当の救いはあり得ません。
子どもとして信じたとしても、中高生になると、悔い改めることが来ないと中途半端です。

それからまた大きなふたつの問題があるでしょう。すなわち第一、社会人になること。それから結婚することなのではないでしょうか。
どなたか好きになることは別に悪くない。当然でしょ。けど結婚する前に親しい関係を持つことは罪です。
結局隠さなくちゃいけない。隠すものは成功しない。結局祝福されることはあり得ない。そして主の祝福がなければ人生は退屈になり、決して満たされません。

ある国の警察は最近、増加する青少年の犯罪に対して、子どもにではなく、親に次のような警告を発しました。
その見出しは、「いかにあなたの子どもは間違った教育によって犯罪者となるか。」という驚くべき言葉によって連ねられてます。
その内容は十ヶ所にまとめられています。

その第一は、あなたは子どもが欲しいものを何でも与えるということを、まだ子どもが小さい時からしてごらんなさい。子どもは大きくなっても、世界は自分のために何でもしてくれると思い込んでしまうでしょう。
その結果は、わがままな人間になるだけではなく、犯罪者になるという恐るべきものとなる可能性を持ってるのです。

その第二は、子どもが下品な言葉を使った時に、あなたが笑うようにしてごらんなさい。そうすると子どもは、自分が大した者だと思い込んでしまうでしょう。
つまり、あなたはそのような間違った教育によって厳しい忠告を重んずるよりも、軽々しい笑いを重んずるようになってしまっているのです。

その第三に、あなたは宗教的な教育とか理想を目指した教育をすべて避けるようにしてごらんなさい。そして子どもが十八歳になるまで待って、それから子どもに自分で何事も自由に決定させるようにしてごらんなさい。
その結果、子どもは大きくなっても、権威を恐れることを知らず犯罪を簡単に行なう人間になっていくでしょう。

その第四は、あなたの子どもが散らかしたものを、例えば本とか靴とか衣類とかいったものをすべて片付けてあげてごらんなさい。そして子どもがそれを当たり前と思うほどに子どものために何でもしてあげてごらんなさい。
その結果は、子どもはいつも責任を他人に転嫁して自分だけは正しいと思うような人間になり、犯罪を犯しても自分は正しい、社会が間違ってると思い込むようになってしまうでしょう。

その第五は、あなたは子どもがいる前でいつも平気で夫婦喧嘩をしてごらんなさい。
そうするとその結果、子どもは両親がやがて離婚するようなことになっても、別に驚かず、そのような重大なことも平気で当たり前と思うような人間になってしまうでしょう。

その第六は、あなたは子どもにいつでも欲しがるだけのお金をあげてごらんなさい。そして子どもが大きくなっても、自分で働いて苦労しなくてもいいように教育してごらんなさい。
あなたご自身が昔苦労したことと、その同じ苦労を子どもにはさせたくないと思ってる親が少なくない。しかしその結果はどうでしょうか。
その結果は、改めて言うまでもなく、その子どもが大きくなったときも、怠け者で、少しも仕事をせず、遊んでばっかりいる人間を作ることになるのです。そして遊びが度を超すと犯罪に結びついていくことは毎日の新聞や報道してることによっても明らかです。

その第七は、あなたは子どもに何を食べたいか。何を飲みたいか、そして何を楽しみたいかを調べて、それを満たしてあげてごらんなさい。
もしそのようにしてあげないと、卑屈な性格の人間を作り上げるのではないかという心配をあなたは持っていらっしゃいませんか。
しかし、何でも子どもの願いどおりにしてやること、いつも子どもが満足した物質生活を送らせてやることは、恐ろしい結果につながってることを正しく知る必要がある。
その結果、子どもはもっとたくさん、もっといいものを欲しがるようになり、お金を盗んだり、物を盗んだりするような犯罪に走ってしまいがちなものです。

その第八は、あなたはお年寄りとか隣人とか学校の先生とかに対して、いつも子どもの味方をするようにしてごらんなさい。
それらの場合、心の中ではそのような人たちは、私の子ども理解できないだけでなく、何か子どもに嫌なこと言ったり、批判したりするのではないかという恐れを持ち、またその人たちは現代教育を当然理解できない連中だからと思ってるのではないでしょうか。
しかしそのような過保護は、子どもを間違った道に追いやることは決して珍しくない。

その第九は、あなたは子どもが重大な問題や壁にぶつかったとき、それは私の問題ではなく、あの子の問題なのだから私はどうすることもできなかったと言って、自分を慰めるようにしてごらんなさい。
しかしあなたはここで一つのことを知らなければならない。子どもは生まれつき犯罪者になるべき生まれて来たのではなく、むしろ親の間違った教育によって子どもがそのような人間になってしまったということ。これをあなたは認めなければならない。

最後のその第十は、あなたは今まで宣べたような過保護の教育の結果、その報いとして親が苦しまなければということを真剣に考えることでしょう。それ以外にいかなる解決方法もないのです。

その国の政府の人々の書いた文章ですから、やっぱり色々なことを通してこういうふうになったなのではないかと思います。
もちろん聖書の言われてるとおり。聖書はもちろんもっと簡単にまとめてることば、ちょっと読みましょうか。

エペソ人への手紙6:1
1子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。

親がイエス様を信じてるからじゃないよ。親が正しいからじゃないよ。ちょっと考えられない考え方です。
けども、神のみことばはそう言ってる。「両親に従いなさい。」、

エペソ人への手紙6:1-4
1これは正しいことだからです。
2「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
3「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
4父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

おそらく世界一の頭のいい男と呼ばれているソロモンは、箴言を書いたのです。
ダビデも分かるものではないけど、よく読むべき本なのではないでしょうか。ちょっと2、3ヶ所見てみましょうか。

箴言13:24
24むちを控える者はその子を憎む者である。

こういう意味で子どもを憎んでる親はいっぱいなのではないでしょうか。

箴言13:24
24むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

箴言19:18
18望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。

大人になってから遅すぎ。親になってから親の責任じゃない。

箴言23:13-14
13子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。
14あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。

箴言29:15
15むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。

箴言29:17
17あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。

知恵とか科学とか教養とか言うものが確かに大切ですけど、もっと大切なことは、子どもは生けるまことの神を恐れ、主を見いだすこと。また主に仕えることなのではないでしょうか。
ですから親は毎日、「主よ。この与えられた子どもは私のものじゃない。あなたのものです。もうお手上げなんです。なんにもできないけどお任せいたします。」、この態度取ると主は必ず働いてくださいます。

聖書は、「主を恐れることは知識のは始まりである。」とあります。
ある家族は次の目標を持つようになりました。

一、イエス様大好きな家族になろう。
二、お父さんはイエス様に従い、お母さんはお父さんに従い、子どもたちは親に従う家族になろう。
三、みんなが優しい気持ちを心がけ、愛し合い、祈りあう思いやりを育てる家族になろう。
四、「ありがとう。」が言える明るい、優しい、声が溢れる家族になろう。
五、家族の中から意地悪な気持ちを追い出そう。
六、間違った時には、「ごめんなさい。」と言える家族になろう。
七、他の困った人や悲しんでる人のためにイエス様に祈る家族になろう。そして
八、イエス様に喜ばれる家族になろう。

今までどういうことがあれ、過ぎ去ったことです。その意味で聖書は本当にすごい。聖書がいつも強調してるのは今から。遅すぎじゃない。
結局自分のために生きたいと思う人は、必ず満たされ得ません。イエス様の建てられる教会のために生きたいと思う、また、望む者は本当に幸いです。

今の挙げた八つの件について、兄弟たちはイエス様に従い、姉妹たちは兄弟たちに従い、子どもたちは親に従う集会になろう。
みんなが優しい気持ちを心がけ、愛し合い、祈り合う、思いやりの育てる集会になろう。
「ありがとう。」が言える明るい、声の溢れる集会になろう。集会の中から意地悪な気持ちを追い出そう。間違った時には「ごめんなさい。」と言える集会になろう。また、イエス様に喜ばれる集会になろう。

この心構えを持つと、イエス様は必ず奇蹟をなしてくださるのです。
イエス様のために生きたいと望むことこそが大切です。中高生たちはイエス様を信じます。結構ですけども、十分じゃない。

何年か前に天に召された兄弟は、あちこちの教会に行きましたし、聖書も読んだし、けど、なかなかはっきりしなかったんです。
私たちがはじめて会った時、何年前だったかちょっと忘れちゃったんですけども、彼は飛行場で待ってたんです。誘われて来ました。

私はこの集会のある姉妹のことをちょっと話したらしいんです。
「火曜日の集会終わってから玄関で、あの姉妹に聞いたんです。『どう姉妹、元気?』
彼女の答えは『はい。』ではなかったし、『いいえ。』でもなかった。ちょっと変わった答えでした。『イエス様大好き。』
そうだったら問題ない。イエス様大好きになってる人はもう幸せ。」

私がこれを話したとき、「イエス様大好き。」と言った瞬間、それで解決になったらしい。
「あ、そうか!イエス様大好きになればOK。」

彼はその日、「もうイエス様のために生きたい。」と言っただけじゃなくて、子どもっぽい歌を作ったんです。
「イエス様大好き」という歌を作ったんです。あとで彼は、よく伝道して行くと、必ずこの歌を歌ったんです。恥ずかしがらないで。

次の日彼は洗礼を受けたんです。親戚のいろいろな人が見えました。そのとき洗礼を受ける前に彼は両手を上げて、「イエス様。だーい好き!」と叫んだんです。

結局それなんです。イエス様大好きにならなければちょっとかわいそう。
大好きになる方法とは、イエス様の十字架について考えれば、私たちの永遠の幸せのためにイエス様は、「わたしは罪のかたまりとされ、のろわれた者になってもいい。人間ひとりひとりのためにわたしは喜んで犠牲になる。」

イエス様にとってそれは本当に何を意味してたか私たちは分かんない。
死んでから、永遠の世界にはいってから初めて分かるけども、イエス様の十字架について考えればやっぱりちいちゃくなる。
やっぱりイエス様のために生きたいと必ず思うようになります。イエス様大好きな集会になりましょう。




戻る