引用聖句:ヨハネの黙示録3章17節
コリント人への手紙第II、8:9
愛する兄弟の読まれました箇所は、ある意味でちょっと大変な箇所です。われわれはもちろん、救いの確信を持たないと悲劇的です。けれども、間違った確信もあるようです。 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない。」、その確信があれば悲劇的なのではないでしょうか。主の判断は違うものでした。 「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」、自分の状態を知っていれば問題ない。知らなければ、悲劇的です。もちろんこのことばは、主は、一度信じて今まで導かれた人々に言われたことばです。 そして、二番目の読んでもらいました箇所も素晴らしいね。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。」、最も大切なのはそれでしょう。主が恵んでくださった人は幸せです。 「主は富んでおられたのに、」イエス様の持っていた富とは、どういうものであったか、聖書は言っていない。 どうして言っていないかと言いますと、どうせ人間のことばで言い表せないからです。 「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」、人間とは立派なものであればわかる。けれども違います。 どうしようもないわれわれのために、イエス様は貧しくなられました。どうして? 「それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」 あなたは、自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知っていれば幸せです。このことばを読む人の反応は違うでしょう。 「ありがたい。私はそういうものではない。」と思う人もいるのではないかと思います。 けれども、主の光に照らされると、「やっぱり、このことば、私にぴったりです。」、といわざるを得ないのではないでしょうか。主の忍耐に感謝すべきです。 イエス様はわれわれとまったく違う。ありがたい。イエス様は、変わったお方であり、悪いことばを使うと変人です。イエス様だけ、ダメな者を捨てようとしない。 今の社会は、ダメな者を捨てますよ。刑務所から出た人は、いくら働こうと思ってもおそらく働き場がない。けれど、イエス様は違うよ。決して捨てない。何があっても捨てないのは主イエス様です。ですから、このイエス様を知ることとは、最高の幸せではないでしょうか。 詩篇の作者であるダビデは言いましたね。 詩篇23:1
詩篇23:5
すなわち、私は満たされている。心から喜ぶことができる。 パウロもやっぱり、満たされた男でした。ローマの刑務所の中で、彼は書いたのです。 ピリピ人への手紙4:19
山の上の別荘で言われたことではない。刑務所の中です。どうして、そういうふうに書いたかと言いますと、自分で経験したからです。 私は満たされている、悩みがある、苦しみがある、けれど関係なし。喜ぶことができる。これは、パウロの告白でした。 イエス様は、大きな声で言われたことがあります。 ヨハネの福音書7:37-38
満たされているからです。 われわれの主は生きておられる。われわれの誇るところはそれしかないのではないでしょうか。 われわれの主は生きておられるお方です。そして、この主の切なる願いは、ご自身の満たしでもってどうしようもない私たちを満たすことを願っておられます。 主の満たしとは、イエス様のうちで形をとって表れてくるものです。そしてイエス様と結びついている者は誰でも、結局、満たされていると言えるわけです。 パウロは、コロサイにいる人々に書いたのです。 コロサイ人への手紙2:9-10
いつか満たされるかもしれないではなく、 コロサイ人への手紙2:10
私たちがどんな困ったことがあっても、その時こそイエス様のみもとに行き、そのことを包み隠さず主に打ち明けると、罪、咎を赦され、束縛から解放され、用いられる器となります。 聖書に言われている満たしとは、もちろんものではない、イエス様です。そしてこのイエス様は、われわれをも満たしたいと望んでおられると、聖書は、はっきりと言っているのです。 詩篇の作者の口を通して、主は言われました。よく知られている箇所です。 詩篇81:10
主の呼びかけとは、こういうものです。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」 主は私たちにほんの少しのものだけをあげたいだけではなく、満たしたい、完全に満たしたいと望んでおられます。 残念ながら多くの人は、祈りのために、また祈りを通して口を大きくあけようとはしません。イエス様は次のように言われました。 マタイの福音書25:34
われわれ人間を本当の意味で満たしてくれるものは、目に見えるものではなく、ここで言われた「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国」です。 父なる神は、私たちにイエス様を通して、もっともよいものを与えてくださいました。イエス様はわれわれのために苦しんでくださり、十字架の上で死なれました。イエス様によって、われわれに必要なものはすべて与えられています。 パウロがこの素晴らしい事実について、ローマにいる兄弟姉妹に書いたのであります。よく知られている箇所ですけれども、ローマ人への手紙8章の32節です。 ローマ人への手紙8:32
大部分のものと書いていない。「すべてのもの」、一言で言いますと、主なる神は私たちにご自身の満たしを与えようとなさっておられ、完全な満足を与えたいと切に望んでおられます。 そのことを聖書は何度も繰り返し語っているにもかかわらず、何故多くの信ずる者がみじめな状態にとどまり、主ご自身の満たしにあずかることができないのか、不思議なのではないでしょうか。 主の満たしについて、いろいろなことが考えられますけれど、ちょっと四つの点について考えてみたいと思います。 (1)いのちの満たし (2)愛の満たし (3)喜びの満たし (4)平和の満たし 結局、人間はいのちによって満たされる必要があるし、愛によって満たされること、喜びに満たされること、平和に満たされる必要があります。 それでは、まず、いのちの満たしから考えてみることにしましょうか。 ここで一つのたとえを申し上げると、もし私たちが重病人を病院に訪ねたとします。そして、私たちがその人の名前を呼んだとき、その人が一度はかすかに目を開けても、またすぐにまぶたを閉じてしまいますと、いったいどうでしょうか。 確かに、その人はまだ命があるけれど、いのちに満たされているとは絶対に言えません。 旧約聖書の中で、力持ちですか、いのちに満たされている人々が書いてあります。例えば、ダビデはそういう男でした。聖書をみると、彼はライオンと熊を殺してしまった。本当のいのちが働いた。 多くの人々は、新しく生まれ変わっていますけれど証しをする備えも、意志も持っていない。 パウロはどこへ行っても、やっぱり証ししたのです。証しすることとは、自分の経験したことよりも、イエス様を紹介することです。 今日、読む暇がないのですけれど、宿題として言いましょうか。家に帰ってきてから使徒の働きの中で、パウロの証しを新たにお読みになってください。 使徒の働き9章、22章、26章を読むと、パウロはどのように公に証ししたのか詳しく書いてあります。 主は証し人を求めておられ、私たちがその証し人となるとき、そしてどのようにして主のいのちをいただいたかを、他の人たちに宣べ伝えてもらいたいと、主は願っておられます。 イエス様の証しの一つは、ヨハネの福音書10章10節に書かれています。 ヨハネの福音書10:10
豊かなるいのちを与えよう、と主は望んでおられます。これこそ、イエス様がこの地上に来てくださったことの一つの目的であり、その意味において、私たちは自分だけが満たしを受けるだけではなくて、そのいのちの満たしを一人でも多くの人に伝える使命を持っているのです。 この使命に邁進するために祈り、またそのような器として用いられるように祈ろうではないでしょうか。 イザヤ書の中で素晴らしい約束が書かれています。イザヤ書60章の22節です。 イザヤ書60:22
人間はできないから。 いのちにみたされているイエス様だけが、私たちをいのちに満たしてくださることがおできになるのであり、それだけでなく、他の人々にもいのちの満たしをもたらすことがおできになるのですが、けれど主は、それをすみやかにしてくださると約束されています。 二番目、愛の満たし、愛に満たされる大切さです。 これは、あなたがどんな人でも、その人が敵であっても愛することができるということを意味しています。 何百年前に、リビングスという兄弟は、アフリカへ行ってイエス様の福音を宣べ伝えました。 もちろん、彼は白人でしたが、けれど彼は黒人の間で生活しました。彼は、彼らを深く愛し、25年間以上も祖国に帰ることなく、そのようにして、最期はアフリカで死にました。 どうして彼は、そのような生涯を送ることができたのでしょうか。それは、彼が愛によって満たされ、他の人々もまた愛によって満たされるべきであるという使命に邁進したからです。 使徒の働きに出てくるステパノという兄弟も、同じように愛に満たされた方でした。 彼は石を投げつけられても、息を引きとるとき、何と祈ったかと言いますと、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」、とひざまずいて大声で叫びました。これこそ、愛に満たされていることです。 私たちもまた、われわれの関係者、隣人、また、兄弟姉妹、そして、敵でさえも愛すべきであると書いてあります。 もちろん、このような愛は私たちが生まれつき持っているものではない。また、どんなに努力しても持つことができません。 そしたら、どうしてそういうことを書いているのかと言いますと、秘訣とはローマ人への手紙5章5節でしょう。 ローマ人への手紙5:5
人間の愛でもって許すことができても、愛することができません。神の愛だったらできる。 証拠なるものは、犠牲になり捧げられたイエス様なのではないでしょうか。 三番目、喜びの満たし、すなわち、喜びに満たされることの大切さです。 ダビデは次のように証ししました。詩篇16篇の11節です。 詩篇16:11
これはダビデの証しですけれど、主なる神の御前で光の中を歩むならば、誰でもこの喜びに満たされます。 この喜びを主は、もちろん一人ひとりに与えたいと望んでおられます。主の喜びは、波のように変わるものではなく、絶えざる喜び、変わらない喜びです。 ハバククという預言者もこのことを経験しました。ちょっと見てみましょうか。ハバクク書の3章17節。皆さん何回もお読みになった箇所ですけれども、素晴らしい告白であり証しです。 ハバクク書3:17-18
もちろん、ここで二回「主にあって」と書いているから、どうして喜ぶことができたか。もちろん主のせいです。 彼は、何でも主のせいにしました。彼は一生懸命働いた。結果はむなしかった。うまくいかなかった。けれども主は知っている。私は知らない。けれど主は知っているから、だから「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」本当に素晴らしい証しです。 この喜びの満たしは、この世の財産や様々な事象にかかっているのではない。この喜びは理解することも、説明することもできないほどのものです。 初代教会の信者たちは、誤解され、迫害され、いじめられたけれど、悩みながら喜ぶことができたのです。 ペテロは彼らの経験について書いたのです。 ペテロの手紙第I、1:8
結局、彼らの住んでいる世界とは、ちょっと違う世界だったらしい。 何があっても、彼らは大いに喜ぶことができた。なぜならば、主は支配しておられる。偶然はないと確信したからです。 四番目、平和の満たし、すなわち平和に満たされる大切さですね。 主はご自分の全き平安を、人間一人ひとりに与えようと願っておられます。 もう一箇所読みます。イザヤ書26章の3節です。 イザヤ書26:3
あなたの存在を認めることではない。信じていることだけではない。あなたに信頼しているから。イエス様は「平和の君」であるから、このイエス様なしには誰も全き平安を持つことはできません。 イエス様がこの世に来られたのは、ご自身の平安をわれわれに与えるためでした。イエス様に信頼するならば、必ず主は恵んでくださり、ご自身の平安を与えてくださいます。 イエス様こそが平安に満たされたお方でした。マタイの福音書の26章30節。次のような文章が出てきます。 マタイの福音書26:30
イエス様は、ゲッセマネの園に行く前に賛美の歌を歌った。 イエス様は間もなく捕らえられ、5、6時間後には十字架に釘付けられ、人間一人ひとりのすべての罪の苦しみを受けてくださり、父なる神に見捨てられるということを知っておられたにもかかわらず、賛美の歌を歌った。 イエス様は十字架の上で考えられないほどの苦しみと悩みを経験なさり、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれましまた。このような苦しみを前もって知っていながら、どうして、イエス様は賛美の歌を歌うことができたのでしょうか。それは、イエス様が、全き平安を持っていたからです。 そしてこの主は、われわれにも同じ平安を与えたいと思っておられます。 そのためには何が必要であるかと言いますと、一言で言えば、イエス様に満たされること、すなわち、主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされることです。 満たされるために何をしたらいいのでしょうか。主の満たしを受ける秘訣とはいったい何でしょうか。 まず、第一に私たちは自分が空っぽなものであるということを知る必要があります。もしも、私たちが本当に正直であるならば、自分の内には何にもよきものがないということを認めざるを得ません。 けれどもそれだけではなく、私たちは結局毎日、今からと考えることができ、前向きに生活することができる。どうしてでしょうか。 答えは、ヨハネの手紙第I、1章の9節ではないかと思います。聖書の中で、大切な「真珠」のようなものではないでしょうか。 ヨハネの手紙第I、1:9
信ずる者、 ヨハネの手紙第I、1:9
主は、すでにご自身の血潮によって、尊い救いの代価を払ってくださいましたので、人間一人ひとりの罪を赦したいと切に願っておられます。 ある人は、自分の罪はあまりにも大きすぎて、果たして主は、こんな罪をも赦してくれるのだろうかという疑いを持っています。 けれど、イエス様は必ずそのような罪をも喜んで赦してくださるのであり、その時を待っておられます。満たされる根拠は、すべての罪は赦されており、忘れられているという確信です。 けれど大切なことは、ただ単に、空の器としてありのままの状態で主のみもとに行くだけではなく、すなわちただ単に、自分の罪を認めて言い表すだけではなくて、第二番目に、幼子のような信仰を持つこと、主の約束をつかむことも要求されています。 悔い改めた後で、主が自分の罪を本当に赦して、洗い清めてくださったという確信を持たなければなりません。この確信の土台となるものは、人間の感情、人間の理解力ではない。主の約束のみことばこそ本当の土台です。 中途半端な信仰は何もならず、主が求めておられることは、徹頭徹尾、主に信頼する信仰です。イエス様は、考えられないことを約束しました。マルコの福音書9章の23節です。 マルコの福音書9:23
聖書は時代遅れなものではないし、このみことばも、われわれに約束されている言葉ではないでしょうか。 「信じる者には、どんなことでもできるのです。」 信仰とは、主の贈り物を頂く空の手のようなものです。けれどまことの信仰とは、提供された主の贈り物を意識的に受け取って、それを自分のものとすることです。 主の目から見ると、最もひどい、恐ろしい罪とは何でしょうか。言うまでもなく、不信仰の罪です。 この不信仰の罪のゆえに、救われていない人々は滅びるようになります。 そして、この不信仰の罪のゆえに、すでに救われている人たちは、成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。 信仰のあるところには、悪魔は逃げざるを得ません。 そして、信仰のあるところには、主がご栄光を現すことがおできになり、奇跡を行なうことがおできになります。 そして、信仰のあるところには、主は、本当に心から崇められるようになり、礼拝されるようになります。 私たちは信仰生活において、いつも分かれ道に立たされているのではないでしょうか。すなわち、目に見える現実の世界を見て、それによって動かされ支配されているか、あるいはみことばを自分のものとして主に拠り頼むかのどちらかです。 これこそが、主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって私たちは主を喜ばせることができるのです。 現代人の多くは、自分のことだけを考えるので、不幸になっています。どうすれば幸せになるのでしょうか。それは、イエス様と結びつくことによってのみ実現されます。 そのための段階は、まず、第一段階としてありのままの状態で主のみもとに行き、すべてを包み隠さずイエス様に打ち明け、罪を言い表すことです。 それから、第二段階は、幼子のような素直な信仰と信頼を持ってイエス様を見上げ、イエス様の約束をつかみ、赦しのために主に感謝することです。 そこで、第三段階は何かというと、それは、満たされることです。もちろん、聖霊によって満たされることです。聖霊によって満たされることによって初めて、幸せになれます。 もちろん信じる者は誰でも聖霊の宮であり、聖霊を宿しています。けれど多くの信者の場合、聖霊は、イエス様の栄光を現すことができません。これは、本当に悲しい事実と言わざるを得ません。 もちろん聖霊に満たされるとは、奇跡を体験したり、異言を語ったりすることではなく、従順に主に従うことであり、自分の支配権をイエス様に明け渡すことです。 そうすると、その結果として、二つのことが言えます。 その一つは、イエス様を信ずる者が喜んで主を証しすること、すなわち主の証人となり、そして他の人たちを主に導くことです。 有名な使徒の働きの1章の8節に書いてありますね。 使徒の働き1:8
なるべきである云々と書いていない。ただ事実として、述べられています。 多くの人々は、自分は聖霊に満たされていると思い込んで傲慢な生活を送っています。けれど聖霊に満たされたことの特徴は、滅び行く人たちのために最善を尽くすことであり、イエス様をあかしすることであります。 それは、自分を否定すること、また犠牲を払うことなしには決してできません。 もう一つ、御霊の実が結ばれることも聖霊に満たされることの特徴です。聖霊の実についての箇所は、皆さんご存知でしょう。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
このような御霊の実は、実らないということは、その人が御霊に満たされていないことの表れです。 言うまでもなく、この御霊の実は、人間の自分の努力の結果ではなく、聖霊の支配の結果です。 (1)ありのままの状態で、イエス様のみもとに行き、すべてを包み隠さず打ち明け、 (2)幼子の信仰を持って、主を見上げ、 (3)自分の支配権をイエス様に明け渡すことによって、私たちは主の満たしを頂くことができます。 パウロは、救われた人々のためにいつも祈り続けたのです。聖霊に満たされなさい。 一つのパウロの祈りを読んで終わります。 エペソ人への手紙3:17-19
「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされるように。」 私たちが、主のいのち、愛、喜び、平安に満たされるための第四の段階は、主を信ずる者同士の交わりの必要性を知ること、そして実際に交わりを持つことです。 ですから、今の18節に「すべての聖徒とともに」という表現が使われています。 そして、私たちは、特別な人たちだけではなく、主を信ずる者すべての兄弟姉妹を愛することを学ばなければなりません。 これはまた、自己否定を通してのみ実現されることです。自分自身を守ろうとする努力はやめましょう。 主に満たされるために喜んで犠牲を払い、そのためには、自分が犠牲になってもよいという人は本当に幸いです。その人は決して損をすることはなく、必ず主のいのち、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされます。 これもまた、決して私たちだけが独り占めするものではなく、悩み、悲しみ、苦しんでいる人たちに対して私たちを通して彼らもまた、主のいのち、愛、喜び、平安に満たされるためです。私たちがこのように用いられるように切に祈ろうではないでしょうか。 イエス様の約束は、ヨハネの福音書7章37節。 ヨハネの福音書7:37
頑張りなさいなのではない。わたしのもとに来て飲みなさい。 ヨハネの福音書7:38
また、始めに兄弟が読みました箇所をもう一回読みます。 コリント人への手紙第II、8:9
あなたがたが富むものとなるべきです。詩篇の作者は25篇の9節、次のように言いました。 詩篇25:9
貧しい者を捜し求めておられる。そして、前に読みました詩篇81篇10節。 詩篇81:10
これは素晴らしい呼びかけ、また約束なのではないでしょうか。 |