豊かになる秘訣


ベック兄

(御代田喜びの集い、2005/07/31)

引用聖句:コリント人への手紙第II、8章9節
9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

マタイの福音書5:3
3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

今朝のテーマは、「貧しくなってもいいの?」あるいは、「豊かになる秘訣」とつけることができるのではないかと思います。
貧しくなってもいいの?どうしてこのことこそが大切であるかと言いますと、先週も引用した個所なのです。

歴代誌第II、16:9
9主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

すなわち主は必死になって、貧しくなってもいいという態度を取る人を捜しておられるのです。

先週私たちは、ちょっと貧しくなったダビデについていっしょに考えてまいりました。このダビデとはみこころにかなう人と呼ばれたのです。いったいどうしてであるかと言いますと、貧しくなってもいいという態度を取ったからです。
今日ももちろんいつものように喜びの集いです。どうして喜びの集いであるかと言いますと、悔い改められるからです。
どういうことがあっても悔い改められることとはすごい恵みではないでしょうか。悔い改めたくない人々とは本当にかわいそう。幸せになり得ない。周りの人々にとって悩みの種となります。

救われることとは確かにすばらしい恵みそのものです。
多くの人々はいわゆる救われた人々を誤解して、やっぱり何か特別なことを経験しないと救われ得ないのではないでしょうか。もう少し聖書を勉強して、イエス様のことを理解できなければダメなのではないかと考えていますけれど、この考え方は確かに宗教的ですけれど間違っています。

イエス様はみなさんよく知っておられる例えを話されたのです。聖書全体の言わんとしていることは、全部この例えの中に含まれているのではないかと思うのです。ルカの福音書の18章の個所なのです。
みなさんご存知なのですけれども、はっきりとした救いの確信をもっていない人々はこの個所を読むと希望をもつようになるのではないでしょうか。
すなわち、「本当にそんなに簡単なの?」と思われるに違いない。

ルカの福音書の18:9
9自分を義人だ

自分はOKだ

ルカの福音書の18:9
9と自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

結局、貧しくなりたくない人々にイエス様はこの例えを話されたのです。

ルカの福音書の18:10
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。

エルサレムの宮でした。

ルカの福音書の18:10-11
10ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

このパリサイ人とは聖書の内容をよく知っていて、疑わずに信じて、聖書の神こそが自分の神であると思い込んでしまった男です。道徳的にも高い生活をしたに違いない。尊敬された人格者でした。
けれども彼の祈りとは自己満足の表われに過ぎなかったのです。主はこういう祈りを聞こうとしない。

ルカの福音書の18:11-13
11『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は

聖書の知識をあまりもっていなかった取税人。嘘をついた偽善者そのものであった。めちゃくちゃな生活を送った取税人は、

ルカの福音書の18:13
13遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。

神よ。ではない。神さま。

ルカの福音書の18:13
13こんな罪人の私をあわれんでください。』

ひと文章で救われてしまった。

ルカの福音書の18:14
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。

義と認められることとは受け入れられることです。救われることです。永久的に。

ルカの福音書の18:14
14なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

救われるためのもっとも大切な個所とはこれなのではないでしょうか。低くなれば、貧しくなれば、あわれんでくださいという態度があれば、主は必ず恵んでくださり、受け入れてくださるのです。
けれども救われた人々の中で結局ふた種類がいます。

みな初めの愛にとどまれば、飢え渇きをもって毎日聖書を開いて、「主よ。語ってください。相変わらず何にもわかりません。迷える羊に過ぎないけれどお導きになってください。」という態度を取るとうまくいく。
テサロニケにいる人々はそういう人々だったに違いない。ですからパウロは、「私はいつもあなたがたすべてのために神に感謝しています。」、パウロは、私はたまに、あなたがた大部分のために感謝すると言っているのではない。パウロのほかの手紙を見るとわかります。
多くの人々とはパウロの悩みの種になりました。ですから彼が正直に、私は困っている。私は悩んでいる。苦しんでいると書かなければならなかったのです。

いったいどうしてこのような違いがあるのでしょうか。はっきり言えることは、なかなか成長しない兄弟姉妹、悩みとなっている兄弟姉妹はイエス様の再臨を信じているかもしれないけれど、待ち望んでいない。
「まだまだでしょう。」、そういう気持ちがあれば結局イエス様に対する愛は大したものではない。
「今日来てもらいたい。」、「今日来られるかもしれない。」という待ち望みをもつと、主は心のまなこを新たに開くことができ、喜びに満たすことができるのです。

結局、ある救われた人々は自分のために生活し、自分自身を実現しようと望んでいます。そうすると主は知らん顔をします。用いられ得ません。
別の兄弟姉妹は何があっても主に喜ばれたいと切に望んでいます。バプテスマのヨハネのように、「イエス様は盛んになり、私は衰えなければならない。」と心から望む人々です。
結局イエス様が中心にならなければ祝福がない。

ラオデキヤの教会の中心になっていたのは人間でした。イエス様は外でした。追い出されてしまったか、自分で出たのかわからない。けれどイエス様のために居場所が無くなってしまったのです。初めはそうではなかったのです。結局人間が中心になると主は姿を消すのです。
ある兄弟姉妹はイエス様のみ、すべての栄光を帰してもらいたいと心から望みます。ほかの兄弟姉妹は知らないうちにつまずきを与えます。分裂を起こすものです。
ある人々は本当に命懸けで集会全体の一致が現われるために祈ります。ほかの人々は結局、自分、自分のことしか考えていないから暗やみの中にいるのです。

マルコの福音書の中のひとりの病気の女性について書かれています。彼女はイエス様を非常に喜ばせたのです。
聖書は簡単に言います。

マルコの福音書5:33
33イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

と書いています。大したものじゃないと考える人もいるけれど、イエス様は彼女の態度を見たとき、嬉しくなった。何にも隠さないでイエス様のところに行くとイエス様は喜んで受け入れてくださるのです。

先週ちょっといっしょに学んだダビデは祈りました。そして祈っただけではなくて、そう思ったのです。違いがあります。
ある人々は悪かったと言い、悔い改めます。けれど本当はそう思っていない。これこそ悲劇的ではないでしょうか。
ダビデは本当に思ったのです。

詩篇26:2
2主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

私が心からそう祈っているとダビデは言えたのです。
「主よ。どうか調べてください。ためしてください。明らかにしてください。導いてください。」、この態度を取る者は大いに祝福されます。
もちろんいつも新たにこの態度を取ることこそが大切なのではないでしょうか。

何年か前だったのですけれども火曜日の朝、集会の前に玄関で、ある悲しそうな顔をしている婦人が見えたのです。
彼女は大変な試練の中にいましたが、「私はうしろのものを忘れ、目標を目指して必死に走っている。」というみことばを読んだとき急に、「私は後ろ向き生活をしたくない。」と言ったのです。「そうか。そうしたら問題ない。」
彼女はイエス様に頼るようになり、信じるようになり、「やっぱり大切なのは過去のことではない。今からです。」と、喜ぶようになったのです。

だからイエス様が紹介されるとき、いつも「喜びの集い」ではないでしょうか。
彼女は、「私も完全ではない。私も傲慢になってしまったし、自分の力にだけ頼るようになったし、私も悔い改めなければ心は満たされ得ない。」と確信したのです。
確かに人間はみな変えられなければならない。すなわち人間はあらゆる束縛から、あらゆる孤独から、あらゆるみじめさから解放されなければならない。
けれど人間はいくら努力しても相変わらずみじめで、さびしくて、束縛されています。人間を変えるためにイエス様が来られました。

前に兄弟のお読みになりました個所は、確かにおもにクリスマス頃に読む個所かもしれないけれど、毎日考えるべき個所です。
コリント人への手紙第II8章9節です。

コリント人への手紙第II、8:9
9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

富む者となるために必要なのは、貧しくなることです。へりくだることです。自分の無力さ、みじめさ、貧しさを素直に認めることです。
主はどういう考えをもつお方なのでしょうか。イザヤは次のように答えました。

イザヤ書57:15
15わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

前に読みましたエルサレムの宮に上った取税人は、この事実を体験したのです。
へりくだることこそがすべてです。へりくだるということは例えて言うならば、イエス様の前における憐れな乞食のようなものであり、心砕かれた人です。
そしてイエス様の光によって自分のみじめさとむなしさを知るようになった人です。また自分には主のみこころにかなったものがひとつもないことを本当に知ることです。

ダビデはどうしてみこころにかなう人になったのでしょうか。へりくだったからです。
パウロだって、どうしてそんなに用いられたのでしょうか。へりくだったからです。

彼は確かに特別な使命をもっていたのです。その意味で、特別な使命をもつ人間は今日はいない。必要ないからです。いわゆる、新しい使徒たちは必要ない。聖書が与えられていますから。
けれどもパウロは確かに特別に選ばれた者でした。パウロは、「ほかの使徒たちは、私よりもずっと偉い。なぜならば三年半イエス様といっしょに生活することができたからです。」
いっしょに生活するとやっぱりお互いのことよく知るようになるでしょう。三年半イエス様といっしょに生活することとはすごいすばらしい特権だったのです。

もちろん弟子たちはイエス様を見つめたとき、いつも疑問符を付けたでしょう。「いったいどういうお方なのでしょうか。」、いつもへりくだっていたのです。弟子たち、わがままな弟子たちに仕えるお方でした。
パウロとはたぶん、この目でイエスを見たかどうかわからない。少なくとも親しく交わったことはない。ほかの聖書学者のように。例えばニコデモのように。
けれどもパウロはあとで特別な使命を与えられたとき、やっぱりちょっと・・・、しなくてもよかったけれど、比較したのです。自分とほかの使徒たち。彼の結論は、私は間違っていると思うけれど、どういう結論であったかと言いますと、

コリント人への手紙第I、15:9
9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。

まずペテロでしょ、すぐそれからヨハネですか、ヤコブでしょ、マタイでしょ、云々と。一番下で私。どうして一番下か。

コリント人への手紙第I、15:9
9なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

結局過去のことを忘れられなかった。けれども彼にとって恵みでした。
もし彼は命懸けでイエス様を信じる者を迫害しなかったならば、宗教家として成功したでしょう。立派な大先生になったでしょう。
あとでパウロはまた自分とほかの兄弟姉妹とを比較したことがあるのです。彼の判断ももちろん間違っていると思うけれど、本気になってそう思ったのです。

エペソ人への手紙3:8
8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられた

結局、兄弟姉妹の中で私は一番小さい者です。
それから、みなさんご存知でしょう。殉教の死を遂げる前に何十年間かイエス様に仕えたあとで、おそらく7年間イエス様のゆえに刑務所の中で過ごしたあとで、パウロはまた愛弟子であるテモテに書いたのです。

テモテへの手紙第I、1:15
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。

それから、

テモテへの手紙第I、1:15
15私はその罪人のかしらです。

一番ひどいのは私です。
結局へりくだると豊かになるとはっきり言えます。
むかしの預言者たちは主の使いとして主のお伺いを、主のみこころを明らかにした人々だったのです。ひとりの預言者は次のように書いたのです。

イザヤ書61:1
1神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

結局貧しい人々が捜し求められています。

イザヤ書66:2
2わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

みこころにかなうダビデも経験したから次のように証ししました。詩篇の51篇。先週いっしょに読みました個所なのですけれども、

詩篇51:17
17神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

これもひとつの教えよりもダビデの体験でした。
主を信じない人々は誇って、自分勝手な道を歩もうとします。実際、救いのない人々は乞食よりも貧しい者ではないでしょうか。したがって、心貧しき者となることこそが最も大切です。
すなわちイエス様の霊によって自分の本当の姿を知り、恐れおののいて、自分からは何も期待することのできない人となることが大切です。

へりくだることとは、自分が強く、偉大な富んだ者ではなく、本当にみじめで、あわれな存在にすぎないことを認めることです。
このことを本当に知る人々だけが、思うところのすべてを超えて、豊かに施すことのできる主イエス様のみもとに行くようになります。
おごり高ぶる者、本当に心砕かれていない者は約束も望みもない。のろいのもとに置かれます。

前に読みました、コリント人への手紙第IIの8章9節に、イエス様は貧しくなられたと書いてあります。もちろん私たちのために貧しくなられたのです。

このイエス様とは全宇宙を創造されたお方です。目に見える世界だけではなく、目に見えない世界も主イエス様によって材料なし、無から造られたと聖書は言っています。
この主イエス様とは、永遠から生きておられるお方です。初めのない、終わりのないお方です。
このイエス様とは、全人類を、私たちひとりひとりを救うために33年間、この地上におられるようになり、ご自身の自由意思でもって、貧しくなったと聖書は言っています。

いったいイエス様の貧しさとは何なのでしょうか。イエス様の貧しさとは、父なる神に対してご自分がお選びになった依存です。
「わたしは父から離れたらおしまい。」とイエス様は自分で決めてくださったのです。
イエス様は父から聞いたことばだけを語り、父が行なったことだけをイエス様は行ないました。イエス様は決してご自分で勝手になさることはしなかったのです。父に全くより頼んでいました。いつも父のみこころに服従なさったのはイエス様です。

死の前だけではなくイエス様はずっと毎日同じ態度を取りました。すなわち、わたしの思いではなくあなたの思いがなるように。
だから私たちはイエス様のことがピンと来ない。理解できない。つかめない。わからない。われわれと全く違うからです。
このイエス様はもちろん私たちの永遠のしあわせ、私たちの救いを願っておられるお方だけではなく、私たちはこのイエス様に似た者となることも主のご計画です。

イエス様の御姿に変えられるために、ある知識にあずかる必要があるのではないかと思います。もちろん頭の知識ではない。聖書の言っているまことの知識とは決して頭の知識と関係のないものです。
聖書の要求されている知識の内容とはいったい何なのでしょうか。二つです。

第一番目。私たちは、私たちの生まれながらの罪の性質は決して直らないということを知らなければなりません。
これを知っている人は、自分でやることはできない。主に拠り頼まなければ、何にもやることができないということをも知っているのです。
私たちは罪を赦され、主から義と認められるためには自分で何にもすることができなかった。ただ一方的なあわれみによって主のものとなり、義と認めてもらいました。

同じように二番目です。すなわち私たちが聖められていくのも、自分の行ないではありません。このことも知らなければわざわいです。
このことを本当の知識として知っている人は、自らを自ら聖めようと努力することをやめ、ただ復活なさった主イエス様に自らをおゆだねするはずです。
「私の思いではなく、みこころだけがなるように。」

けれど問題はいかにしてこのような知識に至るのでしょうかということです。それはイエス様と同じ御姿に変えられていくことによってのみできるのです。
けれどイエス様の霊はイエス様と同じ姿に私たちを変えるみわざをただ悩みによってのみ行ないます。悩みと戦いの真っ只中にあって初めて、イエス様と同じ姿に変えられていくのです。

イエス様は私たちを人間的な目で見るならば、全く望みのない状態に導いてくださいます。いったいどうしてでしょうか。
それは私たちが、われわれの生まれながらの罪の性質は絶対によくならないものであるということを、本当の知識として知っているかどうか。
また私たちは聖きに至ることについて、全く無力であるということを。まことの知識が単なる教えであるかまたは私たちのいのちとなっているか。これらを試し見るために主は悩みのうちに私たちを導いてくださいます。

イエス様が集会全体を通して現わされていかなければいけない。これこそが主のご計画です。そして信じる者が悩み、苦しみ、押し潰されているのは主のご計画です。
その苦しみによって、この兄弟姉妹のうちにイエス様の御姿が形作られて行きつつあるのです。
イエス様に変えられることこそが主の導きの目的であるから、すぐに祈りに応え、悩みから解放されるということをされないのです。

前に話したように、イエス様とは全宇宙を創造されたお方です。けれどもイエス様はたたかれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られました。
もしイエス様がそうしようと思われたならば、それらの人々はイエス様のひとことでこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。けれどもイエス様は耐え忍んで、すべてを負われ、自ら悩みをよしとされ、両手、両足に釘を打たれ、十字架の上で「お前は人を救ったのに、自分を救うことができないのか。」と罵られたのです。
もし、しようと思えばイエス様のために12の天の軍勢が控えていましたから、イエス様のひとことでイエスを救うためにやって来たでしょう。けれどイエス様はそうされませんでした。

イエス様は柔和にして心へりくだったお方です。私たちはこのような主と同じ御姿に変えられていきたいものです。
イエス様は透き通った人格の持ち主でした。極めまでご真実な方でした。偽善を知らなかった方でした。また、ふた心をもたなかったお方です。
向こう行ってあのように言い、こっち行って都合の良いことを言うといった方では決してありませんでした。

私たちはこの主イエス様の御姿に変えられなければなりません。
イエス様ははっきりとした目的をもったお方でした。またイエス様は祈りの人でした。勇気の人でした。柔和にして心へりくだったお方でした。平安、平和、喜びの方でした。
この御姿に私たちも変えられていきたいものです。

これに至る道は、主の歩まれた道を歩む道です。悩み多き道、誤解に満ちた道、またそれはあざけりの満ちた道です。
私たちが静かにイエス様によって吟味していただくことが必要なのではないでしょうか。
イエス様が私たちに語ってくださり、妨げとなっているものを全て明らかに示してくださるように。

前に言いましたように、ダビデは祈りました。
「私の心を、心の奥底を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

旧約時代で現われた預言者たちのメッセージとはいつも同じものでした。すなわち、私たちの道を尋ね調べ、主のみもとに立ち返る。主は待っておられる。
どうして主のみもとに立ち返らなくてはいけないのでしょうか。なぜならば、信じる者も知らないうちに間違った方向に進む可能性があるからです。戻らなければならない。どうして。知らないうちに主から離れてしまうからです。
このことを認識することは非常に謙遜なことです。そして認められた債務を告白することは非常に大切な、また必要なことです。そういう実例はご存知でしょう。聖書の中いっぱいあります。

ひとりのおもだった一人はサムソンという男でした。彼はいうまでもなく、主によって選ばれた民に属していました。主を信じた人々でした。そして長い間主の御手にある用いられた器でした。
士師記16章を読むと、彼が自分の抑えがたい情熱によって気が付かないうちに主の霊が自分から去ってしまったのです。
イスラエルの敵はサムソンをあざ笑いました。というのは、彼は主の霊なしには力のない者、望みのない者になってしまったからです。何という悲劇でしょうか。

それから、今日何回も引用したダビデ。主のみこころにかなう男はもちろんただ単にイスラエルの民に属していた者だけではなく、選ばれた指導者、王さまでした。
サムエル記第IIの11章を見ると、この王さまはバテ・シェバという女性に姦淫を犯し、ナタンという預言者の奉仕によって、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるを得なかったのです。
「その姦淫をした男は私です。」ここにも比類のない悲劇があります。

旧約聖書の中で最も用いられた預言者とはエリヤでした。彼ももちろん主に選ばれた、遣わされたしもべでした。
もうだれにも恐れないで、主の力の現われでしたけれど、あるとき彼は落胆して荒野に引き戻り、主が自分のいのちを奪ってほしいと真剣に祈りました。もう死にたい。
列王記第Iの19章を見るとわかります。すなわち彼は全くペチャンコになってしまいました。そのことに対して悪魔はどのように勝ち誇ったのでしょうか。

もうひとりの預言者イザヤは自分自身を主の光の中に見るようになったのです。
彼は自分の不潔さ、不純さに驚き、次のように叫ばざるを得なかったのです。「ああ、私はわざわいなるかな。私はもうダメだ。」と彼は自分の障害物を認識し告白したのです。

イエス様の弟子たちのことを考えても同じことが言えます。最後の晩餐のときイエス様は彼に言われました。
「あなたがたのひとりがわたしを裏切ります。今晩。」、するとひとりの例外もなく全ての弟子たちは驚いて尋ねました。「主よ。それは私でしょうか。」
私たちも、「主よ。それは私でしょうか。」と問うべきです。「私はあなたを悲しませたのでしょうか。隠れたところのある障害物を私にお示しになってください。私の障害物を認める恵みをお与えになってください。」

ひとりの弟子ペテロが自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことがルカの福音書22章を見るとわかります。彼は外に出て、激しく泣いたと記されています。
これらの特別に主によって選ばれたしもべたちは確かに失敗したのです。けれど彼らはみな立ち返りました。光の中に出ることをしたのです。
すべて偽善的な行為をやめないと祝福がないと彼らはわかったのです。

ですから私たちもサムソンのように力のない、望みのない、助けのないあらゆる状態から脱出すべきです。
ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。
エリヤのように、あらゆる無気力さと失望、落胆から脱出すべきです。
イザヤのように、あらゆる目くらの状態と不純から脱出すべきです。
またペテロのように、あらゆる思い高ぶりと傲慢から脱出すべきです。

聖書の報告とはすばらしいものです。もし聖書が単なる人間の書いたものだったら、こういう失敗について何も書いていないはずです。神のことばだからです。
サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは自分のわがままを、罪過を認め、主に告白し、主のみもとに立ち返ったあと全く回復されただけではなく、前よりもずっと用いられるようになったのです。

今日大きな問題のひとつは何であるかと言いますと、十字架のないキリスト教が宣伝されているということです。
いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も私たちが十字架、あるいは十字架につけられることを恐れるとき、すべて不十分なものとなっています。
イエス様の苦しみにあずかることなしには成長も、実を結ぶこともあり得ません。日々打ち砕かれることなしに私たちの自我は主の働きの妨げとなります。打ち砕かれたあとで初めて主がお用いになります。

このことについて聖書の中で実例がいっぱいあります。例えば、ギデオンとともにいた300人の兵士たちのもっていた土の器が砕かれたとき初めて、その中に入っていた松明が光を放ちました。
主はまずご自身に持ってこられたパンを裂くことによって初めて、何千人もの人々を満腹にさせることがおできになりました。
ナルドの壺もまた高価な香りを家中に満たす前に砕かれなければならなかったのです。

サウロが徹底的に砕かれる備えをもったときに初めて主は彼を用いることができるようになりました。
昔のヤコブもまた腰の骨を外されて、びっこを引いて歩くようになったと聖書に記されていますが、これもまた砕かれたあとで初めて祝福を受けるようになったのです。

信じる者のうちにある主イエス様のいのちは私たちが日々主に自分の意思を意識的に従わせることによって、砕かれることによってのみ明らかになります。
自己否定は自分の権利をささげることです。自分により頼まないことです。
結局イエス様の祈りが毎日われわれの祈りとなれば祝福されます。すなわち、私の心ではなく、あなたのみこころを成してください。これがイエス様のご生涯変わらなかった態度でした。ですからイエス様から恵みの流れが、いのちの泉が人々に分け与えられていたのです。
私たちの考え、感情、意思すべて主のご支配のもとに置かれるとき、私たちのうちからもいのちの泉が湧き出てくるはずです。

貧しくなってもいいの?という質問に対する答えとは次のものであるべきでしょう。
「イエス様。私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうかそれにしても私を通してご自分のみこころを成し示してください。」と心から祈れば、主はあふれるばかりの祝福を与えてくださいます。




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